サマーメモリー
尾崎敬久
前兆はあった。
リビングのソファに転がる黒い物体。
紛れもなくゴキブリだった。
すでに死んでいた。
死骸は乾いていて、触るとパラパラと崩れた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
当時、僕たちは4階建ての賃貸マンションの3階に住んでいた。
小さなベランダがあって、そこに半分だけ人工芝を敷いた。
裕福ではなかったけれど、幸福だった。
息子の一歳の誕生日には、
トイザらスで見つけたプラスチック製の砂場をプレゼントした。
直径1メートルほどの砂場は、水を入れればプールになった。
水深10cmほど。息子にも安心だ。
あの夏の日も、小さなベランダに出した小さなプールで、
息子は嬉しそうに遊んでいた。
僕も、妻も、小さな幸せを噛みしめながらその光景を見ていた。
最初に異変に気付いたのは、僕のほうだった。
人工芝の上を勝手が悪そうに移動している黒い物体。
ゴキブリだ。
昼間に見るゴキブリは新鮮だった。場所がベランダだから、なおさら。
しかし。
ああ。
ちょっと待って。
いやマジであり得ないから。
人工芝から、二匹目、三匹目が現れる。
息子がプールではしゃぐ。こぼれた水が人工芝の下を通る。
それに連動して、四匹目、五匹目が現れる。
「この子を部屋に入れてくれ。はやく」
「え、どうしたの?」
「ヤバイんだ。いま、この窓が開いているだけでもヤバイんだ」
「なんなの?一体」
不思議がる妻に言った。
「殺虫剤を持ってきてくれないか」
僕は真剣だった。妻は黙って僕にゴキジェットを手渡した。
つい5分前まで幸福に満ちていたベランダ。
そこに敷いてある人工芝の下で、
明らかに良くないことが起きている。
この問題に立ち向かい、解決するのは誰か。
どう考えても僕じゃないか。
深呼吸した。何回も。
そして、ゴキジェットを人工芝に向け、一気に噴射した。
「シューーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ」
僕がヤラれるんじゃないかと思うくらいの長時間噴射。
ベランダは白い煙に包まれた。
5分待った。急いてはいけない。
30cm四方の人工芝を、一枚ずつ、ゆっくりめくっていった。
アアアアアア。
出てくる。出てくる。出てくる。
ゴキブリ。ゴキブリ。ゴキブリ。
みんな死んでいる。まだ若い。体長1cm前後。
人間でいうなら10代だろうか。
僕は自分が殺めた彼らを割り箸で一匹ずつつまみ、
広げたティッシュの上に並べていった。
30匹を超えていた。
大量殺戮。虐殺かもしれない。
すべてを終えた時には、なんだか大きな罪を犯した気分になっていた。
「終わったよ・・・」
僕は、帰還兵のような憔悴しきった顔に無理矢理な笑みを浮かべ、
手も洗わずに息子の頭を撫でた。
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後日、平和が戻ったベランダの鉢植えから、
今度は大人サイズのゴキブリが死骸で出てきた。
慌てて周囲を見回したが、他には誰もいなかった。
僕はある仮説を立てた。
最初にソファで死んでいたゴキブリ。
後日ベランダで死んでいたゴキブリ。
この二匹は夫婦だ。
二匹は偶然にも我が家のベランダで出会い、愛し合った。
妻であるメスは鉢植えにタマゴを産み、孵化させた。
アマゾンのジャングルみたいに亜熱帯な我が家のベランダで
一家は幸せに暮らしていた。
父であるオスは、自らの好奇心を抑えることができず、
クーラーの排水ホースから我が家に侵入した。
クーラー内部を進行中に運悪くクーラーが作動し、冷風で凍死。
オイルのCMに出てくるバラのようにパラパラになって、
クーラーの真下にあるソファに落下した。
すべて筋は通る。
僕は妻に力説した。
妻は、まったくどうでもいいよというような、退屈な顔で笑った。
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