宿敵
いきなり弱気です。毎日書き込むように努力しますなんて
言っておきながら、ついつい頭を掠めるのは、このコラム
の書き手に許されていることのひとつにある「沈黙も可」
という4文字。コピーライターという商売柄、やっぱり文
章には時間をかけたいし、でも、仕事が土石流のごとく迫
ってくるし。「今日は、コラム休んじまえよ」という悪魔
の囁きを振り切りつつ2日目に突入です。
H病院の救急へ電話をし終えた僕は、会社のネームボード
に「私用外出」とだけ書き込んで、タクシーに倒れるよう
に乗り込みました。運転手さんの整髪料がやけに鼻につき
ます。窓の外を流れる風景は、家路に急ぐ人たちや飲みに
出かけるサラリーマンたちで溢れています。午後7時くら
い。こんな時間に帰るなんて、もう10年以上ない。「帰
りたいなぁ」「酒飲みたいなぁ」茫洋とした頭の中でそん
な思いが明滅します。考えてみれば、この時、熱はすでに
40度を越えていたかも知れません。そういえば、もう2
日ほど部屋にも帰ってません。風呂にも入ってないです。
看護婦さんに汚れたパンツ見られたらどうしよう。余計な
心配が頭をもたげます。
数分でH病院に到着。殆ど裏口といっていいような救急の
錆びたドアを開けて中へ。受付はすでに暗く誰もいない様
子。仕方なく診察室へいきなり入りました。先ほど電話し
た者だと告げようとした僕の視界に飛び込んできたのは、
上半身をはだけたお婆ちゃんのあられもない姿でした。
「ごめんなさい」上擦った僕の声が、ひと気のない病院の
廊下にこだまします。慌ててドアを閉め、廊下でうなだれ
ながら、上手く言えないけれど直感的に「間違ったかな」
という思いが心の片隅に芽生えました。そんな僕の鼻先に、
いきなり書類がクリップされたボードが突き出されました。
顔を上げると、そこには[めちゃイケ]に出演してる光浦
靖子似の看護婦さんが、仁王立ちで僕を睨んでいます。無
言です。かなり怒っているみたいです。「すみませんでし
た」消え入るような声で改めて謝罪すると、「これ書いと
いて」と妙に甲高い声でひと言告げると診察室に消えてし
まいました。どうやら自分の容態を書き込む用紙のようで
す。ギイギイ鳴るリベットの馬鹿になったパイプ椅子に座
り、用紙に自分の病歴やら今の状態を書き込みながら、な
んとなく漠然とだけれど「失敗したかな」という気分が胸
の中にどんよりと広がってゆくのを感じていました。
「佐倉さん」例の甲高い声が僕の名前を呼びます。カーテ
ンに仕切られた診察室に入ると同時に、僕は盛大に吐瀉物
をリノリウムの床にぶちまけていました。
カーテンの向こうでは看護婦のお姉さんたちが夜食の出前
のことでもめてます。 (つづく…のか)