母の話
ということは、次はかーちゃんの話になるわけです。
かーちゃんは金はないくせに自由人で、たまに用があってケータイに電話すると、「あ、もっちゃん?今一人でアムステルダムにきてるんだけど、コーヒーショップとか行くわけじゃないから心配しないでね」と用件を聞いてくれることなく電話を切られたり、ルールも知らないくせに、フラ〜っと単身横浜球場に乗り込んでベイスターズの試合を観戦し、まわりの観客と意気投合してその日のうちに私設応援団を結成して飲みにいったり、そうかと思うと50過ぎて、かーちゃん小説家になる!!と突然宣言しだして、あまりしまりのない私小説を書いて僕に読ませてはしつこく感想を求めてきたり、(だから遺伝的に、この一連のコラムもしまりのないものになっているわけです。)とにかく、歳の割にフットワークが軽く、直感的に生きています。
もうすぐ還暦を迎えるそんなかーちゃんが5年ほど前に、今度はシャンソンを習い始める、と言い出したときは本当に鳥肌がたちました。なぜならうちのかーちゃんは、歌が大好きな割に、絶望的なほど音痴だったからです。(だから遺伝的に、僕も音痴です。)そして本人は、その事実に全く気付いておりません。その昔、まだ幼い僕をカラオケにつれていっては、かーちゃんは「桃色吐息」を歌ったのですが、それが気色悪くて気色悪くて、本当に残念でしょうがありませんでした。だから、優しい僕はかーちゃんの恥ずかしい桃色吐息を聞きながら、「かーちゃん、俺の前で歌うのはまだいい。他人の前でさえ歌ってくれなければ。」と幼心ながらに心の中で何度も呟いていました。
そのかーちゃんが、シャンソンです。
たまの休みに実家に帰ると、「アーアーアーアーアー」と、隣近所に聞こえるような大声で、ボイストレーニングに励むかーちゃんのダミ声に朝っぱらから叩き起こされたり、レッスンで録った自分の歌を吹き込んだテープを僕に無理矢理聞かせては、自信満々に「どう?どう?」と、さあ褒めてくれといわんばかりの勢いで感想を求めてきたり。優しい僕は、「うーん。もうちょっと高音を弱めに出すと、もっとよくなるかなー」なんて当たり障りのない返答でお茶を濁すわけです。
そんなこんなで1年ほどたち、「どうかそれだけは言い出しませんように」と心底祈ってたことをついにかーちゃんは平然と言ってのけました。
「今度、コンサートに出るからきてちょうだいよ。」
聞けば50人ぐらいもお客さんがくるらしい。無理だ。絶対に無理だ。自分の親の公開処刑に立ち会いたいと思う息子がどこにいるだろうか。しかもなんとチケット代は3500円。か、金までとるのか?!ジャイアンリサイタルよりタチ悪くねーかそれ。100万払ってもいいからチケットを買い占め会場を貸し切りにして、誰もいないホールで思いっきり歌わせてやりたいと思ったくらいです。父ちゃんと弟にも声をかけたらしいが、二人とも逃走したとのことで、残された親族は僕と祖母だけだという。しょうがないから、宇野家の代表として責任をとり、かーちゃんの屍を拾うために戦場に向かう事にしました。
しかし、祖母と二人で現場につくと、場所を間違えたのか、そこにはお洒落な外人さんがたくさん。市民会館みたいなところで身内を呼んで開くママさんコンサートだとばっかり思っていたのですが、なにやらそこが外国人客がよく来るライブバーだということに気付いたとき、絶望というものには底がない、ということを知りました。
近所のおばさん連中相手に歌うならまだいい。皆さん母が素人なのをわかってて、暖かい目で見守ってくれるだろうから。手拍子だってしてくれるだろう。酔っ払ったら一緒に鼻歌でリズムをとってくれるかもしれない。しかし、相手がみんな何も知らない外国人だとしたら、ウチのかーちゃんは日本代表のシャンソン歌手に見えてしまう。(考え過ぎか。)しかも、シャンソンってフランス語だろ?この中にはフランス人がきっと何人もいるだろう。日本の恥が世界デビューじゃないか!!まわりにいる西洋人たちの爽やかな笑顔が、すべて悪魔のそれに見えました。
そんな息子の気持ちにはおかまいなく、叶姉妹が着てるようなド派手な赤いドレスを来た、見た事もない恥ずかしい姿のかーちゃんがステージに登場するわけです。みなさん、自分の母親がそんなカッコしてたらどー思います?もちろん僕はかーちゃんのあまりの勘違いぶりに死にたくなりました。さすがのかーちゃんも緊張しているらしく、ちょっぴり赤ら顔。いい歳してそんな格好して頬染めて何がしたかったんだあんたは!と客席から怒鳴りそうになりました。
パチパチパチ、というまばらな拍手の後、録音されたピアノのメロディが流れ始め、マイクの前に立ったかーちゃんがついに歌い始めました。その時の僕の絶望感といったら、自分の就職面接どころの比ではありません。
でも、最終的に、僕が覚悟してたのとはまるで違う結果になったんです。
歌に対する感想はとりあえず完全に置いといて。
「愛の讃歌」という歌をかーちゃんはフランス語ではなく日本語で歌ったのですが、外国人たちにはそれが大ウケ。どうやら彼らにとって日本語のシャンソンは珍しいらしく、オージャパニーズソウルフル!とかなんとか、あまり英語やフランス語はわかりませんが、隣の外国人がそんな感じで叫んで拍手していたことを、僕は一生忘れないでしょう。日本語がわからない人たちで本当に助かった。ちなみにかーちゃんは完全にアガってしまい、アーとかウーとか、歌詞はほぼ適当でした。
そんな勘違いかーちゃんと勘違い外人の狂宴の話を引用して結局何が言いたかったかというと、人は、実際は駄目駄目なんだけど、それがよく分からないものであればなんとなく惹かれてしまうこともあるっていうことです。なんかわからないけど気持ちが伝わる、というのは実はただの勘違いの時もあって、でもそのいい勘違いが、人と人のコミュニケーションを円滑にしてくれるときもあるのかもな、と似非コミュニケーション論に無理矢理つなげてダラダラ書きそうになりましたが、多分まとまらないのでやめておきます。
ところでこないだ、かーちゃんから連絡がきたのですが、その時知り合った音楽関係の仕事をしているフランス人の紹介で、なんと本場のパリのなんとかとかいうでかいホールで、シャンソンを歌わせてもらうチャンスをもらった、とのこと。よかったね、でも無理してフランス語で歌わないで日本語限定にしとき。ごまけるから。
とにかく念じれば叶うということを母から学んで、僕も今回新人賞を頂くことができました。おめでとう、そしてありがとうかーちゃん。ほーら宣伝しといてやったぞ!!