仮名遣い
赤井宏
昨日は、俳号の話を書いたので、その続きを書いてみたいと思います。
俳句を始めて驚いたことは、俳句の世界ではいまだに旧仮名遣いが生き残っている。というか、旧仮名遣いの方が主流のように思えることでした。いまの世の中、日本語は99.999パーセント新仮名遣いの口語体が流通しています。広告コピーでも旧仮名遣いと言えば、下田一志さんの往年の名作「スーしませう。」くらいしか記憶にありません。
ところが俳句の世界では、今も旧仮名遣いが凌駕している。旧・新の割合は6:4もしかしたら7:3かもしれません。我々の句会も基本的に旧仮名派です。最初は、年寄りくさい、辛気くさいと感じて、意識して新仮名でつくろうとしたのですが、そのうち考えが変わってきた。というのは、新仮名遣いというのは、戦後につくられたもので、江戸時代から続く俳句の世界ではたかだか60年の新参者。俳句と言う文学表現には無理があるのではないかと思ったから、ではなくて、単純に旧仮名でつくると句がよく見えるということに気づいたからです。馬子にも衣裳。駄句にも旧仮名というわけです。
それと、旧仮名を使うことで、過去の名作と自分の句を同じ土俵で見られると言うのもあります。時空を超えて、歴史上の俳人たちとバトルできるような気がする。ひとつのタイムトンネルですね。図々しいのは承知の上で、芭蕉や蕪村の句と自分の句を並べてみます。例えば
菊の香や奈良には古き仏達 芭蕉
目覚むれば軽くなりたる蛍籠 子魯
月天心貧しき町を通りけり 蕪村
ね、なんとなく近い気がしませんか?やっぱりしませんよね。残念。
まあこんな遊びをしながら、楽しんでいるわけです。
皆さんもいかがですか、旧仮名遣いのめくるめく世界へ。
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