安全の基準、安心の基準。
最近、ニュースでよく耳にする
「基準値のXX倍の放射能が検出されたが、ただちに健康への被害はない。」
とかいう話。
「大丈夫です。」と言われる程かえって不安になるみたいなパターンってのは、
世の中にゴロゴロしているわけだが、それらに共通しているのは「胡散臭さ」だ。
最初の文章の場合、まず「ただちに」ってのが胡散臭い。
たしかに、いまこの瞬間にクリティカルなダメージは無いんだろうが
この先、何十年もこの地で暮らしていく前提でいる僕らにとって
「何十年にもわたって、健康への被害はない。」という話をしてくれないと
正直、ちっとも心は安らがない。そもそも僕らが被爆に対して持っている
イメージって、すごく時間をかけて、じっくりダメージが出てくるってもののはず。
そういうみんなが持っている「将来」への不安に対して、ひたすら「ただちに」ってコトバを
繰り返して「今」を乗り切ろうとしても、それはやはり、無理があるとしか思えない。
そして、もうひとつ、とってもとっても胡散臭いのは、
「基準値を超えてるのに、大丈夫」というロジックそのものだ。
そりゃあ、基準値ってのはある程度、安全のための余裕をもって作られるものだろう。
でも、それの何倍、何十倍の数値を示しておいて、大丈夫といわれても
「それは、素人の目から見てもぜったい大丈夫だよね!」とはならないのが普通である。
科学的に、きちんと説明されれば、その値でも大丈夫なことは、
おそらく僕らでも理解できるだろう。でも問題はそこじゃない。
何も事件が起きていない平常時の前提で、少しでも何か異常があったら
それを見逃さないようにと作った基準値は、実際に被害が発生拡大し始めて
異常がある前提に条件が切り替わった際には、もはや機能していない
ということに気がつくべきなのだ。
「安全のための基準値」ではなく、「安心のための基準値」。
いま、僕らにはそれが必要だとおもう。
いつもとは違うけど、それでも安心していられるために。
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