リレーコラムについて

コンテ

倉光徹治

 CMの企画を考える作業は、要は頭の中で行う作業なので時間と場所を選ば
ず、頭の中で何を考えていても他人からそれは見えないので好きなことを考え
られる。それこそ口には出せないようなあんなことや、こんなことまで。それ
はそれで問題があるような気がしないでもないのだが、コンテを描く作業は、
そうはいかない。

 机と紙と鉛筆がないと描けない。科学的根拠はさっぱりわからないが、家や
会社でひとりで作業をするよりも、たとえばファミレスやカフェなんかの周り
に人がいる環境でする方が作業がはかどることがある。そんな場所でコンテを
描いていると(もちろん守秘義務に関わる部分は書かないが)周りからの視線
を感じる時がある。「あの人は漫画家だろうか」的な視線である。大人が絵を描
くことを生業にすることに対する一種の特異なものを見る視線である。そんな
視線を送る人たちに、一言だけ言いたい。

 気持ちは分かるが、コンテは漫画ではない。

 仕事を始めたばかりのある時期、自分の企画を面白くしようと努力し、コン
テを漫画のように面白く描いてしまうミスを犯したことがある。だがそれは間
違いだと気づいた。面白くない企画が面白く見えてしまうからだ。

 コンテは、人と「こんな映像になる」というイメージを共有するための設計
図である。漫画はその紙自体が完成品である。コンテを漫画として描いてしま
うと、役者には無理な表情が描けたり、ありえないレンズの構図が描けたりす
る。映像のリズムも違う。コンテは面白かったのに、映像になると面白くない
というミスが「いとも簡単に」発生する。

 ちなみに紙のコンテを見ながら、その先にある映像を理解する行為をコンテ
を読むと言う。映像にはマナーがあり、すべてのカットには意味がある。音階
とコード進行がある楽譜みたいなものかな。それを読まなければならない。コ
ンテの描き方、読み方なんてあたりまえだが、教わったことはない。だから、
そのミスに気づくのに少し時間がかかってしまった。

 そのうえ僕は漫画家の影響を受けていた。鳥山明氏や大友克洋氏の巨匠たち。
そして、ここに書いてもほとんどの人が知らないような無名の天才漫画家たち。
宮崎駿監督などの有名アニメーターのコンテも売っているので読んだ。アニメ
ーションのコンテも、その絵自体が動くので、映像と漫画の間くらいの設計図
だと思う。漫画家から影響を受けてたので、コンテを漫画として描いてしまっ
たのだろう。

 字コンテ、というものもある。クリエイティブディレクターに見せるはじめ
のコンテはたいてい字コンテだ。文字どおり字だけで書くコンテ。こんな企画
で、こんな映像、こんな台詞、ナレーション、と、内容を文章で書く。情報が
そぎ落とされていて、早い。TUGBOATのコンテは字コンテが多い。

 字コンテにしろ、絵コンテにしろ、コンテは面白い。コンテが好きなのだと
思う。映像に向かうまでのスリルがある。どこまでも想像を広げられるスリル
と、具体的可能性を探るスリル。そういえば大学時代に学んでいた建築も、実
物よりも設計図や模型の方が好きだったな。

 そのため、現実に定着させるとどうしても不満が残るのは確かだ。コンテの
時点では、他にも可能性があったのではないか、と思ってしまう。だが、そん
なことを言っていては次には進めないので、それを延々と繰り返していくこと
になる。平日も休日も朝も夜も関係なく。やれやれ。

 まあ、何はともあれコンテが好きでよかった。

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