珈琲と煙草の謎
東京で図書館を使うようになったのは、大学時代に卒業論文を書いた時から
で、公立図書館をよく使っていた。当時からすでにインターネットで多くの情
報を検索することはできたが、さすがに専門領域の論文を書くためには情報が
浅く足りなかったのと、落ち着いて書く作業に集中できる環境だったからだ。
今でも何かを書く作業をするときには図書館に行くことがある。大量の本に囲
まれるという空間の物理的状況が好きだ。古くなった紙とインクの匂い。
作業が一区切りつくと、食堂で学食並みに安いカレーライスを食べ、喫煙室
で煙草を吸う。その図書館の喫煙室はガラスで囲まれており、見た目はまるで
毒ガス室で、白い煙がモヤモヤと漂う中で喫煙者たちがどこを見るでもなく視
線を泳がせ煙草をプカプカしている。その中に入り、煙草を取り出し、火をつ
け、吸う。周りにはたいてい論文を書きに来ている大学生や、何かの調べのも
をしているのか、けっこうな年配の方などがそれぞれ相手から距離を置いてベ
ンチに座っている。だんだん暑くなってきましたね、なんていう会話は発生し
ない。みんな、ただ、ぼうっと煙草を吸って、何も言わずに出て行く。
えらく大袈裟な機械式の自動販売機によって注がれた紙コップの珈琲を飲み、
煙草を吸う。高台にある図書館なので、喫煙室の窓からは東京の景色が見える。
静かだ。空気清浄機の音だけがゴンゴンゴン、と静かに低い音をたてている。
どうして煙草を吸うようになったのかは、分からない。どうして煙草をやめ
ないのかも、分からない。周知のとおり、パッケージには非常にドライな文体
で体に対する悪影響の内容が書かれている。ご丁寧な恐怖訴求。やめようと思
えば、辞められる気がする。風邪をひいた時や、喉の調子が悪いとき、旅行に
行った時に自分の吸う比較的珍しい銘柄の煙草が売っていないときなんかは吸
わない。
だが、この一連の行動、珈琲と煙草、という組み合わせは何かを書くとき、
まるで儀式のような存在として必要なものになってしまった。
珈琲と煙草。その二つを人生から引き算するとえらく数値が減ってしまう。
今、計算をしてその数字をはじき出してみて驚いてしまった。というのは冗談
だが、そんな気がする。ジム・ジャームッシュなんてそれで一本映画を撮って
しまった。
僕は立派な作家先生ではないが、昔の作家も映像の中で何かを書いたり考え
ていたりするときには、たいてい煙草をプカプカしている。本人としてみれば
執筆との間になにか関係があるのだろう、きっと。何かの物質が脳にあたえる
刺激に秘密が隠されているのだろうが詳しいことはわからない。
まあ、そんなことはよく分からないままでいいじゃないか、と言われると、
まったくそのとおりなのだが、なぜこんなことを書いたかというと、このコラムが今日までで、次の執筆者を指名するのを忘れるところだったからだ。
次のコラムの執筆者は尾形真理子さんです。
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