ローライが教えてくれること
カメラを手に出かけると、いつもより周りの景色をよく見るようになる。“目”がひとつ増えるからでしょうか、風景の細かいところにまで神経が行き届くようになる気がします。
十年ほど前から、ローライフレックというカメラを愛用しています。長方形の箱にレンズが縦にふたつ並んでいるクラシックカメラです。古いカメラは、大きくて、重い。首からぶら下げているだけで肩が凝る。フィルムも高いし、現像代も高い。だから、やたらめったらシャッターをきることはしません。ただただ重い箱を首からぶら下げ、ボーッと歩いている時間の方が圧倒的に多くなる。それでも、ローライと一緒に歩いていると、心がふっと軽くなるような風景に出会うことが多い。
せっかくカメラを持っているのだからいい写真が撮りたい、とばかり思って歩いているわけではなく、なんとなく気になった場所で、なんともない風景にレンズを向け、ファインダーのふたを開けて立ち止まる。
ローライは、ファインダーを箱の上から覆いかぶさるようにのぞきます。ファインダーには、風景が左右反転して映る。ファインダーに映る風景は鮮明とはほど遠いけれど、とても近しく感じられる。空が、雲が、ビルが、行き交う人々が、なんとも言えず愛おしく感じられてくる。
雑居ビルの建ち並ぶ中を、スーツをビシッと着た若い女性がママチャリを必死の形相でこいできたり。コンビニの前で、子供が舐めていたアイスを落っことしそうになった途端、母親が素手でキャッチしたり。駅につづく階段で、女の子が見送りにきた男の子の方を何度も何度も振り返っては手を振っていたり。
なんでもないっちゃなんでもない光景が、すごく心にしみてくる。
ファインダーの中の世界はとても美しく動いていて、僕はただシャッターも切らず見とれてしまい、そんな美しい瞬間を写真には残せないまま、その瞬間はあっという間に過ぎ去ってしまう。
カメラマンとしては、失格。でも、その光景の余韻はずっと心に鮮明に残る。
カメラを持たない時の僕は、どれだけそんな美しい光景を見過ごしてしまっているんだろうか。目をつぶったまま、素通りしてしまっているのだろうか。
最近では、ケータイにカメラがついているし、iPhoneは思いのほか鮮明な写真が撮れる。いつでも、カメラを肌身離さず携帯していることになる。デジカメは、現像代を気にすることなく思う存分シャッターをきることができる。でも、というか、だからなのか、ケータイもデジカメも僕の“目”にはなってはくれません。
アナログがいいとか、デジタルはどうもいまいち、とかいうのではありません、もちろん。カメラとしては、決定的瞬間を逃さないためにも、デジタルの方が効率がいいはずですし。
ただ、なんというか、愛着というか、モノとの距離感というか、アナログのように構造が分かりやすいモノの方が体の一部になりやすい気がします。
壊れても自分の手でなんとかできる安心感というのもあるかも知れません。だからというか、逆に、壊れないようにすごく大切にするし、手入れを怠らない。
技術が進歩し、機能がますます便利になるにつれて、その内部構造はますます複雑になり、壊れてもフツーの人ではどうにもならないことになっていく。どんどんフツーの人の手を離れていく。モノとの距離感が遠くなるにつれて、モノがどんな仕組みで動いているのか気に留めなくなる。中身はどうあれその便利さだけを求めるようになる。壊れても平気でいるか、壊れた途端、直せと直せと憤り、直せない人を責め立てる。僕たちは、いつの間にか、ものすごく得体の知れないモノの中で暮らしていることを忘れている。忘れようと努めている。
ローライの“目”を通してみると、シンプルに必要なことが見えてくる。
できれば、ローライの助けなしに、世界のささいな美しさをいつでもありのままに感じる“目”を持って生きていきたいものです。
いつも持ち歩くには、あまりに大きく重すぎるので。
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