口紅のにじみ
小室さんのコラムの深さに考えさせられている内にバトンタッチで、
じぶんのコラムのことを何も考えていない現実にア然となり、
さて困りました…。
サン・アド時代の楽しい思い出話でこの場を逃れようと
思いましたが、楽し過ぎて個人情報に抵触するかと思い止めました。
思い立ったことは、自分の目に焼きついている「場面」の話です。
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口紅のにじみ
それは高二の秋の日曜日のこと。
僕は上野のレコード店の隣りにある静かな珈琲館に一人でいました。
輸入盤の珍しいLPを手に入れて、ジャケットの写真と何が書いてあるか
判らない長い英文にじいっと見入っていました。
ふと顔をあげると、いつの間にか右斜め前の二人席に一人、
黒いワンピースの女性の後姿がありました。年齢は判りません。
背筋が凛として珈琲を品良くお飲みになるその姿は動作が少なく、
横顔さえも見ることができません。僕はカタチとして持ちはじめた
ばかりのショップ(ショートホープというタバコ)を手に取りました。
唇にはさんだその時です。その女性が白いハンカチを手に、白い珈琲カップに
付いたわずかな口紅のにじみを手際よく拭くのが見えました。僕はそうした
所作をみるのは初めてで『素敵ですっ』と胸の中で拍手。すぐに白いハンカチを
膝の上のハンドバッグに戻して伝票を手にスッと立ちあがって椅子を直しレジへ。
ここでその横顔が拝見できるものと思いましたが、レジはこちら向きで…、
最後まで後姿しか見ることができませんでした。
その数分の場面が、数十年後の今も焼きついています。