誰かの視線は、わたしの視線でした。H氏とY氏のこと。
春の嵐のせいで、
少しさくらが心配な、さくらです。
きょうは、
ぼくと同世代のふたりのアートディレクターのお話。
H氏とY氏は、九州男児だ。
それも、昭和の男である。
そりゃもう漢丸出し、全裸と言ってもいい。
H氏もY氏も社長だ。
正確に言えば、Y氏は、
ついこの間まで社長だった。
詳しいコトは省くけれど、
自分が立ち上げた会社は若い衆に譲って、
今は故郷でデザインのセンセーをはじめた。
ふたりとも恰幅が良い、貫禄がある。
押しも押されぬ感が
穴という穴から滲み出ている。
とくにY氏は、180センチ以上あまり。
ガタイもかなり良い。
その威容は総合格闘家のごときである。
でも、眼鏡の奥のつぶらな瞳と
まあるい声音が、ボーリョク方面の方とは
真逆にいるひとだということを、
すぐに推察させるし、
少し前にレーシックの施術などをしたから、
眼鏡というフィルターもなくなり、
さらに柔和な瞳が丸出しになっている。
Y氏はとても繊細なタイポグラフィのひとで、
上手いというより、
そのタイポを黄金律のように
存在させることのできる希有な達人だ。
最初に出会ったのは、
某電通が聖路加から汐留に越したばかりのころ。
その後すぐに、もう一方の九州男児、
“いもがらぼくと”のH氏のオフィスで
繰り広げられる年末恒例の激しく乱れ、
坩堝のように沸騰する酒席で邂逅をはたした。
あれから随分と経つ。
そして、H氏である
氏は、Y氏よりは、やや立端がない。
昔、「バベル」の監督、
アレッサンドロ・イリャニトゥの
別の映画のポスター仕事があった。
その余禄として俳優のベニチオ・デル・トロと
H氏、そして、ぼくの3人で写真を撮る恩恵に
浴したことがある。
そのときはじめて、氏の立端のなさに気がついた。
なぜ、ぼくが、それまで氏をそう思って
いなかったかというと、
目ぢからが、凄かったから。
でかく見える。
つよーい目ぢからだった。
やばい。キケン。目から硝煙の臭いがする。
その立端の不足分を補って余あるほどの
射貫くような眼光に多くの人間はやられる。
そして、一寸五分ほど後退りする。
だから、でかく見えたのだと思う。
ぼくよりもひとつ年長のH氏とは、
ドイツのクルマの競合が最初だった。
年齢はひとつしか違わないけれど、
どちらかと言えば
ぼくもタテ社会の中で育ち、
倒けつ転びつしてきたほうなので
H氏に対しては必然的に敬語になる。
一時、お互いに相手を
どう呼んでいいか困り果てて、
H氏は、ぼくのことを「おい、サクラッチ」と呼び、
ぼくのほうは「なに?ヒ○カッチ」と応えるという、
なんとも醜悪なこととなり、
若い衆の失笑を買っていた時期もあった。
そんなH氏とY氏、
そして、昨日書かせていただいたK氏に、
今の事務所のサインをお願いした。
図らずもY氏の東京における最後の仕事となった。
Y氏のサインは、氏同様に、たかーいところから
ぼくを見下ろしてニコニコしてる。
H氏のものは、
ぼくの定席となりつつある空間の傍らで
酒精と紫煙にまみれながら
睨みをきかせている。
K氏のサインは、
やっぱり粛然と最初からそこにあるように佇み
スタッフを向かえてくれる。
あとふたつ、
別のサインの完成を、今は待っている。
そして、ぼくの気持ちは、また少し、きゅっとなる。