リレーコラムについて

極限状態

宇野元基

去年の10月、祖母が他界した。
末期の食道がんだった。肉親の今際に立ち会うのは初めてだった。

2011年10月12日。
当時ある酒造メーカーを担当していてちょうど東京に出張していた僕は、
母からの呼び出しを受けて病院に向かった。
病室に行くと、3日前に喋った時とは大分変わった祖母の姿があった。
すでに意識はなく流動食も受け付けなかった祖母は、
骨と皮だけになっていて、たくさんの管に繋がれていた。
ちょっとした寝返りで口につけた酸素吸入器がずれると
血中酸素濃度がすぐさま下がり迎えがくる、そんな状態だ。

ちなみに健康な人の血中酸素濃度は100%から96%ほどある。
90%を切ると危険な状態とされ、
80%を切った人間は意識を失う深刻な状況下に置かれる。
祖母の血中酸素濃度を示すパルスオキシメーターは、
そのときすでに60%のラインを上下していた。

夜中、医者が部屋に来て、今夜明日がリミットだと伝えた。
地方に点在する身内が集まれるのは明日の昼だ。
これが最期の夜になることを知った僕と母は、二人っきりで祖母を看取る覚悟を決めた。


病室に置いてあった写真の何枚かに、幼い僕と祖母の姿が写っていた。
生まれてから五歳頃までは、世田谷の上祖師谷にある母の実家で過ごすことが多かった。
割と裕福な家庭だったので、おもちゃや漫画、欲しがるものは大体祖母が買い与えてくれた。
孫の中でもとりわけ可愛がってもらった方だと思う。

その頃の祖父は椎茸や春雨を輸入して卸す問屋だった。
会社の若い社員や親戚一同を何人も家に集めては、祖父母はよくドンチャン騒ぎをしていた。
二人ともとにかく酒と人が好きだった。
破産した爺さんが死んだ後、家財一式差し押さえられた祖母は
ひとり給田の安い公営団地に追いやられたが、
浮き沈みの激しい人生を生きてきた、タフでファンキーな酔人だった。

思い出とは対局にある暗い病室の中で、
呻き声が強くなれば、看護師を呼び出して吸引器で痰を吸い取ってもらい、
モルヒネをたくさん入れてもらった。
看護師によると、その量は一回の標準量をはるかに超えるものだった。

さすがに疲れ切っていた母がウトウトしはじめたので、
手持ち無沙汰になった僕はマックを開いて、仕事をすることにした。

予定では、翌朝赤坂で担当している酒造メーカーの最終打ち合わせがあった。
出られないという話はCDと営業にしてあったが、
とりあえずコピーだけは打ち合わせ前にメールで必ず送るという約束をしてしまった。
コピーライターは僕一人だったし、プレゼンは明後日というところまで来ていた。
ADの画はもう完璧に仕上がっている。その晩は、コピーの〆切だった。

酒好きの祖母の横で酒のコピーを書けば、何かが降りてくるかもしれない。
と思ったが、もちろん何も降りてはこなかった。
今その時のファイルを見返してみても、そのほとんどはコピーではなく、
初めて直接対峙する肉親の死への焦燥感を誤摩化すためにつづられた、ただのフォントの落書きだ。

目の前で死んでいく家族の隣で、ハレの舞台の酒について、ハッピーなコピーを書く。
そんな状況に身を置いたことのあるコピーライターは、もしかしたら他にもいるんだろうか。
仕事のデッドラインと、本物のデッドラインが同居した真っ暗な一室で、
その時まさに、僕は極限状態の中にいた。

プレゼンには結局どんなコピーを出したか忘れてしまった。
とにかく後日再プレになった。

そんなことを思い出しながら、これから高尾山にある墓に向かう。
今日は祖母の一周忌だ。

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