リレーコラムについて

『政治的にニュートラルで居たい、って。』

広告と政治は相性が悪いのか
それとも仕事と政治の相性が悪いのか
政治の話になると広告業界の人たちは
反応が鈍くなる。静かになって聞き手に回る。
広告業界の仲間だけじゃない。一般市民だって
居酒屋などの飲み屋では政治家への愚痴が盛り上がるけれど
会議室で政治の話をしようとすると
静かになり、空気が重苦しくなる。
問いただすと、こう言われる。
「政治的にニュートラルで居たい」って。

居酒屋で政治家への愚痴を言い合い、お定まりの「感情的になるなよ」のセリフ。
政治とはそういうものか。
いや、そうだ当たり前だと言う人が多いことも知っているが、違う。
ただ、それがこれまで日本人の心にあった、政治の心象風景であることは確かだ。
どうやら普通選挙の前の等級選挙の時代に深く刷り込まれたのか。

日本の普通選挙の歴史は今年で67年。
一方、異常選挙の歴史は77年。
(異常といっても民主主義と世界人権宣言の世界を普通とした場合なんだけど)
その前は士農工商の江戸時代。
まあまだ、普通と異常で平たく比べても、普通が異常より10年少ないというわけだ。

民主主義になったからといって一朝一夕で平等になるんじゃないんだな。
教育が行き届かないとダメなんだな。

どうもそのタイムラグが理想と現実の乖離と「オッサン臭政治観」を生む。
それが嫌で政治を離れる。投票率が低くなる。
結果、投票しなかった人たちの意図に反し、社会は悪化する。
社会によかれと思うならば、「脱オッサン臭」政治に一手を打つのが正しい。

日本人は様式美を重んじる。
では政治の話は様式美としてはどこに格納されるのか。
北欧の小学校の教科書のなかには、自分の意見を言い、
人と違う意見を尊重することの大事さ、
意見の多様性が生産的であり社会にとってポジティブである、
ことが書かれている。
様式美として政治を正しい位置に格納するなら
まず小中高校の授業のなかだろう。
でも生徒と先生の意見の多様性を双方重んじることができている学校は実は1割にも満たないのではないだろうか。先生や大人の権威を教えることが、現場では、意見の多様性を教えるよりも優先しているのではないか、と疑ってしまう。

そしてなにより、広告がプロパガンダの汚名を雪ぎきれていない。
いまだに「国民運動」という入札が行われていることに誰も疑問を呈さない。

はっきり言っておくが、プロパガンダと広告は違う。
プロパガンダにならない広告は可能だ。
それが言いたくて毎日仕事しているようなもんだ。

いつか必ず、証明してみせる。
広告は民主主義を豊かにし、合意形成を助け、人類の歴史を希望に満ちたものにする。
核と戦争の恐怖から人類を解放する。

30年は死ねない。

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