自転車泥棒
テレビや映画を見ながら、いつの間にか
内容とはてんで違うことを考え始めていて
見ているようで実は見ていない状態が、僕にはよくある。
その夜、CSの番組を眺めながら
僕はいつの間にか「あの自転車」の記憶をたどっていた。
大学時代、移動手段は一台のママチャリだった。
大学まで自転車では15分ほどの、雑司ヶ谷という町にアパートを借りていた。
大久保のキャンパスとアパートの間は、新目白通りが谷になっていて
行きは下りで帰りは上り、自転車でもそこそこの時間がかかる通学路だった。
バイト代はすべて生活費だった。
兄貴に譲ってもらった原チャリ、バイトで買った中型、親のクルマ、
そんなものが当時の僕にあるはずはなく
長距離の電車以外、移動には常にそのママチャリを使った。
通学、日々の買い物、電車の時は目白駅まで、
天気が良ければ渋谷くらいならそのママチャリで出向いた。
ママ用の26インチ。
速/普/軽の3段変速だったが、確か「普」はチェーンのかかりが悪く、
結局重いか軽いかだけの、極端な2段変速仕様だった。
後輪軸には「ハブステップ」がつけてあった。
名目上は、転倒したときの後輪のギア保護用の鉄棒。
実際は2人乗り用、後ろの人間が立ち乗りする時の足場に使う、あのバーだ。
アルバイトしていた学習塾の生徒に手配させたんだったと思う。
二人乗りして、警官を見つけたらパッと飛び降りる、見つかったら素直に謝る。それさえどことなく楽しかった時代だ。
人も物も、大概をそのママチャリに乗せて運んで、学生時代を過ごした。
カゴには、徹夜で仕上げた模型や図面を、トイレットペーパーを、
友人から貰い受けた14インチテレビを、飼っていた猫を。
ハブステップには、友だちや当時の彼女を。
あの自転車にまつわる記憶は、無数に鮮明に蘇った。
それなのにひとつだけ、どんなに記憶の奥深くを掘り起こしても、
どうしても思い出せないことがあった。
それは、あの自転車の最後、だ。
大学4年の初夏、確実に落ちこぼれていた建築の道は早々にあきらめていた。
藁をもすがる気持ちで、制作者の道として広告業界を目指した。
幸いその道で生きていいよと、内定という手形をもらった。
卒業後は会社の寮に入ることが決まり、アパートも明け渡すことになった。
早く社会人になりたかった。「働いて給料をもらう」ことに激しく憧れていた。一方で社会人になることに神経質なくらい怯えてもいた。
どちらも本当の気持ちだ。
そしてどちらにせよ、僕にとって学生を卒業し社会人になることは、
それまでの人生で最も大きな転機、決別の瞬間であったはずだ。
それなのに、あの時代のシンボル、あの自転車との別れのシーンだけが、
どんなに眉間に力を込めても、ぽっかりと空白のままなのだ。
誰かにゆずった記憶はない。
かといって捨てた記憶もない。
寮に持っていった記憶もない。
あの自転車はどこにいったのか。
確信がある。
僕はきっとこれからも、もうその真実を思い出せない。
それはとても悲しい。
大切だったはずの、確かにどこかに置いてきたもののことを思い出せない
その身勝手で都合の良い自分が、少し嫌になる。
あのときまさか僕は社会に出る事に浮かれていたんだろうか。
やっとこんな学生生活が終わるとでも思っていたんだろうか。
ただその一方で、不思議な気持ちにもなった。
何者でもなかった学生時代から、焦るように社会人になって、
幸い今もまだ広告を作り続けている。
僕の中ではそれは人生が変わったくらいの大きな出来事だった。
それが今、あの自転車の行方という記憶の欠落に気づいたこと、
決別と卒業の記号を失ったことで、
あの頃と現在が地続きになった感じがした。
そんな劇的な決別や卒業などなかったのだと。
とてもざわついた据わりの悪い気持ちと、
それを妙な安堵感で受け止めている気持ちとが、ないまぜになっている。
そう、妙な安堵感だ。
社会に出て身につけた事もそれなりにある。
そしてここ最近、少しだけ大人の振る舞いを意識していた気がする。
なるべく怒る事なく、なるべく物わかりよく、なるべく受け止めて。
あの自転車との別れのシーンが見つからない。
記憶がひとつ欠落する事で、そのシーンが隠されてしまった事で
良いのか悪いのか、おまえは所詮あの頃の延長だよと、ずっとあの時代が続いてんだよと誰かに耳打ちされた感じがした。
あれからずいぶんたった今の僕にだからか、
その耳打ちのエコーがやまない。
あの頃くらいの感じでいいじゃないか。
大人になろうとして、つまんなかっただろ。
エコーはそんな風に、僕に響く。
本当に都合の良い話だ。
記憶の欠落は、失うという形のギフトだったんだろうか。
自転車の最後は、空白のままだ。もうずっと空白でいい。
番組は終わっていた。
中身は、まったく覚えていない。
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