ホワイトアウト
麻生哲朗
言葉について書こう。一応TCCだから。
CMプランナーという職業が先に立つとは思わないが、
僕のアンテナが特に反応しやすいのは、やはり活字よりもセリフだ。
セリフとはつまり、シーンだ。
単独のコピーに、屹立したフレーズの存在に身震いすることももちろんある。
セリフはそれとは様相が異なる。生まれ方、漂い方がそもそも違う。
誰が、どこで、どんな声色で、どんな表情で、誰に、どう語ったか…その様々な要素の中でセリフは成立するし、それがないと本当は成立していない。
同じ言葉でも、シーンが違えば意味は全く異なる。
それを連発する人間の「好き」と、嫌いな気持ちをごまかすための「好き」と
そういうことは滅多に言わない人の「好き」は違う。
だからセリフの良さを誰かと共有するのは、なかなか難しい事だ。
同じ場所に居合わせない限り。
映画でも、やはり同じ映画を見た人とでないと、そこでのセリフの良さは共有しづらい。「俺たち終わっちゃったのかな」「まだ始まってもいねぇよ」キッズリターンのエンディングのしびれる感じは、こうやって活字にすると確実に目減りする。まぁ、書いてみてもそこそこ良いけど。
同じシーンを見た人と、あの時のあのセリフさ…という感じでないと、そのセリフの良さを共有したとは思えない。
残念だが、それがセリフのたまらない魅力でもある。
同じ言葉なのに、それぞれが唯一無二のニュアンスを抱えている。
色んな人のセリフに囲まれて生きている。
座右の銘にもなるくらい、深く刻まれたセリフもあるし、
そうでないものはその何千何万倍もある。
セリフだからこそ、の心の残り方がある。
何の変哲もない一言だけれど、あの日あの時の、あの人の一言だったから深く覚えている、そんな残り方だ。
あのときの父の一言。
僕は一番下の妹とは11才違いだ。
その末の妹が生まれる時、僕は小学校5年生、上の妹が1年生。
いよいよ母が出産となり、僕たちは数日間父と3人暮らしをすることになった。
母が作り置きしてくれた食事もあったが、団地暮らしだった僕たちには「近所のおばさん」という頼もしい味方もいて、ある日斜め上に暮らすおばさんが、長期の留守番をする僕たちにカレーを一鍋作って持ってきてくれた。それは確かに美味しかった。
翌々日だったか。父が、同じカレーをまた子どもに食べさせるのはしのびないと思ったのか、このカレーをさらにおいしくアレンジすると告げて台所に籠った。母の手際とは雲泥の差である事は仕方がない。僕と妹は随分長い時間待った。父は元来が凝り性だ。そして厳しい人だったので「お父さんまだぁ?」というような気安い催促ができる雰囲気もなかった。僕たちはただ静かに、黙々とカレーを改良する父を待ったのだ。
しばらくしてテーブルに、トマトジュースとカレーが並んだ。
空腹の僕と妹はスプーンを持ち、そして目の前のカレーと対面する。
白い。
少し前まで、いい感じに煮詰められ琥珀色をしていたカレーが、白い。
絵の具の黒に、いくら白を混ぜた所で完全な白にはならない。
しかし目の前のカレー、いや、元カレーは白い。
確かに完全に白ではない。乳白色、そんな魅惑的な色とも違う。
ところどころダマになって、握りつぶした豆腐に近い。かすかに異臭が漂う。
一口含み、口が止まる。妹を見る、固まっている。
父が食べる。
僕たちは父の様子をうかがう。
父は黙ってスプーンを置いた。
そして静かに僕たちに言ったのだ。
「君たち。このカレーは、食べなくていい」
あの一言を聞いたときの胸を撫で下ろす感覚、共有できるだろうか。
凝り性の父が、あれだけ厳かに、かつ潔く敗北宣言をしたあの一言は、
字面は平凡だが、シーンの核として、今もまざまざと記憶の中に居座っている。よかった、やっぱり不味かったんだ…。
牛乳を入れた後、そこから巻き返せなかった、父はその後、そう言っていた。
セリフの存在の仕方は、実に不安定だ。
だからたまらなく愛しい。
僕たちは、難しい単語をこねくり回したり、言葉の組み合わせを試行錯誤したりしながら日常会話をするわけではない。散在する字面はいつだって平凡だ。
けれど、どんなシーンにも、たいがい、なんらかのセリフがあって
人や風景との掛け合わせの中で、妙な力を発揮したり、鮮烈な記憶の記号になったりする。
そういうものに出会うたびに、あぁまだまだCMプランナーでありたいと、思うのだ。
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