イカの握り寿司
外﨑郁美
コラム4日目。
私には4歳年下の弟がいる。
忘れもしない、弟の5歳の誕生日。
当時の弟のセンスがちょっと渋くて、
なぜかイカのにぎり寿司が好物だった。
そんな弟を想った母。
大皿いっぱいにイカのにぎり寿司をこさえた。
30個は並んだと思う。
こんなに大量にイカのにぎり寿司だけが
並んでいる光景を、後にも先にも見たことがない。
その日、弟の誕生日にも関わらず
父の帰りがちょっと遅かった。
大量のイカの握り寿司と、母の手作りショートケーキが
食卓の上で今か今かとそのときを待っている。
父はまだ帰ってこない。
しびれをきらした母が、
ロウソクに火をつける。
「ハッピバースデーかずくん」
母と私がバースデーソングを歌う。
ちょっと照れながらロウソクの火を吹き消す弟。
いただきまーす!
ちょうどイカの握り寿司を食べはじめたところで
父が帰ってきた。
「ただいま」
いそいそと手を洗い食卓につく父。
真っ先にイカ寿司に手をつける。
「イカ、かたっ」
でた!父のデリカシーゼロ発言。
既に帰りがちょっと遅れていることに
イラッとしていた母の様子に気付くこともなく、
開口いちばんに飛び出したのが
イカかたいぞ発言。
たしかに、あのときのイカは
なぜか噛み切れなかった。
大きめの握り寿司を一口で
頬張らないといけない感じではあった。
でも、おいしいおいしい、と
弟と私は食べていたのである。
そこに、「ごはんの準備ありがとう」の一言もなくでた
このイカかたいぞ発言に、母がブチ切れた。
声にならない声で叫んだ。
きっと、子どもたちにはわからない
たまりにたまった不満があったのかもしれない。
狂乱する母。ビビる父。
そんなふたりの様子におびえた弟が
ついに泣きはじめる。
それはすぐに号泣の叫びと嗚咽に変わる。
真っ赤な顔をして咳き込む弟。
「イカ、おいしいよ!
イカ、噛み切れるよ!」
私の必死のフォローは
空でむなしく響いて消える。
大皿の上で悲しく陳列するイカの寿司たち。
ぽつんとすみに置かれたホールケーキ。
泣き叫ぶ弟。
私は当時、
母のこの気持ちを理解できなかった。
イカがかたいという本当のことを言っただけで
こんなにキレられる父を不憫だと思っていた。
でも今ならわかる。
ひとりぼっちでこれだけ準備するのが、
どんなに大変かということを。
「ありがとう」そのひとことだけで、
どれほど気持ちが救われるかを。
その後、ほとんど父と私で
大量のイカ寿司をたいらげた。
残すわけにはいかなかった。
今でもたまに思い出す。
あの噛み切れなかったイカ寿司を。
でも思う。
こんなできごとすら、
家族を家族にしてくれる。
ケンカを笑って振り返れるそんな家族もいいもんだ、
そう思えるようになったのは、けっこう最近のこと。
はじめから理想どおりにいくことなんて
意外とすくないんじゃないかと思うと、
ちょっと前向きな気分になれる。
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