エッセーの書き方
かくして、
赤松隆一郎くんからコラムがリレーされたのである。
コラムとはなにか?という話は9年前にさんざんしたのでもうしない。
https://www.tcc.gr.jp/relay_column/show/id/1394
ありていに言えば、コラムというのは、随筆を書けばよいわけだ。
随筆とは、一般的にエッセーと呼ばれるものである。
エッセーとは、
「事象と心象が交わるところに生じる文章」である。
自由な形式の散文ではあるが、
事実だけを書くとそれは報道、もしくはルポルタージュであり、
空想だけを書くとそれは小説であったり、詩であるわけで、
エッセーの定義は、割とはっきりしているのだ。
イッセー尾形の跡を継ぐ人間はニセー尾形なのか、というと
これは二世かどうかはっきりしていない。
オリビア・ハッセーは八世ではないし、
だいぶん前から布施明の奥さんでもないことははっきりしている。
そして、定義だけではなく、
エッセーの基本形式というのも、割とはっきりしているのだ。
新聞の「天声人語」みたいなものを読めば、
この基本形式がほぼ毎日踏襲されているのが分かる。
いわゆる起承転結だ。
1.発見
↓
2.帰納
↓
3.演繹
↓
4.詠嘆
というコード進行で記述されるのである。
1. 今日、Aというものを見た。
↓
2. Aの特徴から考えると、Aの本質はXであろう。
↓
3. と、なると、BにもXは当てはまるし
それどころか現代社会全体の本質はXなのだ。
↓
4. ああ、軍靴の音が聞こえてくる。
このAはきゃりーぱみゅぱみゅでもPerfumeでもなんでもよい。
とにかく最後に「軍靴の音が聞こえてくる」と締めくくれば完成なのである。
「今日は2月3日。
節分だ。
節分では鬼に豆を撒いて、撃退する。
それはせんじつめれば暴力の発動である。
近隣国との緊張が高まる今、
このような暴力装置を作動させる民意、
それは危険な道へと続くのではないか。
まさに私が危惧する現代社会の本質だ。
ああ、軍靴の音が聞こえてくる。」
なぜこんな新聞をみんな毎日読むのか
だれか教えてほしい。
そのほかには、
「序→破→急」というのもある。
こういうやつだ。
「今日は、2月3日。
節分だ。
そのことを書こうと思った矢先、
電話が鳴った。
用事ができたので、出かけることにした。
人生には思いがけないことが起こるものだ。
きょう、私はそれを学んだ。
通りには春の風が吹いている。」
あまりにも急だ。急すぎる。
ここまで急な話も聞いたことがない。
しかも破の部分も、これでは破綻の破であろう。
また、「起→結」というひどいものもある。
こんな感じである。
「節分である。
だいたい、節分というのはどういう意味なのか。
なぜ豆を撒くのか。どうして恵方巻を食べるのか。
しばらく考えてみる。
…。
…。
考えたが分からなかった。
世の中には考えてもわからない事というものがある。
それは、人生そのものだと言えないだろうか。」
これはひどい。ひどすぎる。
しかしこんな調子の文章を書いて、
お金をもらっている人というのはたくさんいるのだ。
なぜかというと、エッセーとは
「何が書いてあるか」よりも
「誰が書いたものか」のほうがはるかに重要だからだ。
大変よいことが書いてあるどうでもいい人間の文章は、
だれも読まないし、買わないが、
どうでもいいことが書いてある大変有名な人の文章は、
誰もが争って読んだり、お金を払ったりするのである。
なので、この文章も大変よいことが書いてあるのに、
どうでもいい人間が書いているので、誰も読まないのだ。
どうでもいいエッセーだからといって読まない、
声なき声に耳を傾けることのない大衆の姿勢、
それは危険な道へと続くのではないか。
まさに私が危惧する現代社会の本質だ。
ああ、軍靴の音が聞こえてくる。
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