新人賞の取り方
ついにあの事を書かねばならない時が来た。
いつかこんな日が来るとは思っていたのだ。
東京コピーライターズクラブ・クラブハウスに飾られた、
あるトロフィーの事だ。
原宿・表参道に豪壮な姿を見せて聳えるTCCクラブハウス。
その一角に燦然と輝くトロフィーが飾られている。
それを目にしたことのある会員もいるだろう。
そんな人は、いますぐ
目の前のパーソナル的なコンピュータのディスプレイの光を浴びながら、
あるいは携帯に適した電子的なデバイスの画面を見つめたまま、
挙手するがよい。
そう、そのトロフィーには
【2001 TCC新人賞 TANAKA HIRONOBU】
と永遠に輝く私の名前が刻印されているのだから。
なぜ、そんなものがそこにあるのだろう。
この東京コピーライターズクラブというのは
応募して、「新人賞」を受賞しなければ会員になることができない。
しかし、私が新人賞を受賞して会員になったのは
2002年である。
だが、そのトロフィーには【2001年】と刻まれている。
もうおわかりであろう。
それは、「幻のトロフィー」なのだ。
ガッツ石松の「幻の右」とは関係ないし、
またガッツ石松が「座右の銘は?」と聞かれて
「右は1.0、左は0.8」
と答えた事にも関係ない。
それは「左右の目」だ。
ましてや不安に感じた質問者がガッツ石松に
同じ内容を「好きな言葉は?」と聞き直したところ
「“五十歩百歩” だねえ。
僕はこの言葉をずっと胸に抱いて、
五十歩、百歩とくじけずに進んで世界チャンピオンになったんだよねえ」
と答えたことは心配だがもっと関係ない。
話がガッツのせいで前へ進まない。
ここは五十歩、百歩と話を前進させよう。
2002年、
私は応募したある広告(当たり前だ)の内容が認められて、
東京コピーライターズクラブから、
新人賞を授与します、との一報を貰った。
喜んだ私は吉野家で「1人2本まで」と決められているビールを
隣の知らないおっさんを親友だと言い張って4本頼み、祝杯をあげた。
いいことは続く。
同じ広告が、ACCこと全日本CM連盟賞でも
ゴールドを受賞したという連絡が吉野家にもたらされた。
隣の知らないおっさんの、さらに隣の
もっと知らないおっさんも親友として店員に紹介され、
6本目のビールが運ばれたことは言うまでもない。
翌日から私は、
先輩やクライアントからたくさんの電報を貰い、花に囲まれた。
ヨットや別荘を譲渡され、高級外車を乗り回し、第4夫人まで娶ったあげく、
TCC年鑑の撮影に行き肖像写真を撮ってもらった。
その撮影のとき、秋山晶さんに声をかけられた。
「君が田中くんだね。面白かったよ。票を入れました」
人生最高の時だった。
小学3年の頃、
2本1組になっているソーダバーアイスキャンデーが
うまく割れた時以来の喜びを味わったのだ。
だが、好事魔多し。麹町でお寿司といえば久兵衛。
まるで久兵衛でおまかせで寿司を食べた後のお勘定のように不幸はやってきた。
TCCとACC、両方の賞が取り消しになったのだ。
原因は、信じられない事だが、
「CMの送稿ミス」である。
クライアントも、営業担当も、クリエーティブディレクターも、全員が
「いろいろ撮影した中の、あのタイプの素材をテレビ局に送って、オンエアした」
と思い込んでいたのだ。
よくよくあとで調べてみると、
放送局にはその素材はたしかに送られていなかった。
思い込みは恐ろしい。
私の、みなさんへの謝罪行脚が始まった。
ほんとうに申し訳ない。
すでに刷り上がっていたTCC年鑑2001は大幅な改訂をしてもらわなければならない。
ヨットや別荘、高級外車は処分した。
「砂の器」のテーマ曲が流れるなか行脚を続けていた、
そんな時だ。
一通の手紙が届いた。
差出人の欄には、美しい字で、秋山晶とあった。
手紙の内容は、私信であるから公開できない。
ただ、泣いて暮らしていた(恥ずかしいがほんとうだ)私に、
一筋の光明を照らしてくださったことは生涯忘れはしない。
話はそれで終わらない。
その翌週、大阪の会社の机で
突っ伏して泣いていた(恥ずかしいがほんとうだ)私に
声をかけてくれた人があった。
鼻をかみながら振り向いた。
秋山晶さんだった。
「落ちこむことはない、と言いに来たくてね。
堀井ちゃんと3人で、ウイスキーでも飲みにいきませんか」
バーのカウンターに着くなり、
堀井博次さんは
「お前は真ん中に座れ」
と言った。
秋山晶と、堀井博次に挟まれて飲むウイスキーの味を、
広告人を志す若い人になんと伝えればよいだろう。
記憶は途切れ途切れだ。
ただ、夜も更けた頃、
二人が
「おいアキヤマ!ええかっこしいのウイスキー屋め!」
「なんだと線香屋!堀井ちゃんはハエのことでも考えてろ」
「うるさいマヨネーズ屋」
とこれまた史上最高の会話を繰り広げていたことだけは覚えている。
まだ32歳だった私は、
たくさん泣きながら、
二人の偉大な先達に、
「来年また、おふたりに恥ずかしくない仕事をして、
かならず新人賞をいただけるようにがんばります」
とだけ伝えた。
そして翌年、
誓い通り頂いたトロフィーは私の手元にあり、
幻のトロフィーは捨てられずに、なぜかいまも
東京コピーライターズクラブのクラブハウスに鎮座しているというわけである。
若い人よ、広告の仕事は、楽しいか?
東京コピーライターズクラブの一員となっても、
つらいこともあるだろう。
泣きたいときもあるだろう。
私だって、今だって、そうだ。
そんなときはクラブハウスの、小さなクマを見て
そんな話もあったねと、中島みゆきの歌でも歌ってほしい。
TANAKA HIRONOBUは、そこにいる。
そうして、五十歩百歩と、前へ進んでほしいのだ。
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