リレーコラムについて

2003年から

松尾卓哉

2002年の秋、
「2年間の時限的な社内人事交流のために、営業部署への移動」
という打診が私にあった。
  
「移動するなら、別の広告会社に転職します」
 
私は、即座に断った。
 
電通社員でいることよりも、クリエイティブの仕事がしたかったからだ。
 
「能力を認めているからの要請なのだ」と説得されたが、
私にとって、それは筋が通っていない話だった。
  
「能力を認めているのなら、この仕事を続けさせ欲しい。
 今は、クリエイターとして成功するかどうかの大事な時期なんです」
と頼み込んだ。
 
実際、いくつかのクライアントの仕事を任されるようになった頃で、
仕事を納品する度に、実力がついている確かな手応えがあった。
とにかく仕事が楽しくて仕方がなかった。
   
上司の上司である次長のところにも何度も直訴に行き、
結果、移動はなくなった。
 
   
そして、その8ヶ月後。

カンヌ国際広告祭(当時)で、CM部門で電通本社からは唯一の受賞者となった。 
 
私への評価は一変した。
 
なぜなら、
そのCMは、電通社内の出品選考会で落とされていたからだ。
  
当時の日本のCMは、参加することに意義があるかのように、
受賞見込みがまったくないものまでもが
各広告会社と制作会社から無秩序に出品されていた。
現地では日本のCMは冷ややかにブーイングされ、
広告祭に参加した日本人たちは恥ずかしい思いをして帰って来ていた。
その惨状を少しでも改善しようと、
電通では選考委員が「受賞するであろう」という
お墨付きを与えたCMのみが出品を許可されていた。
      
受賞後は、
「落とされたのに勝手に出品して、唯一の受賞とは愉快だ」と役員に褒められた。
選考委員たちへの反発から、選考で落とされた人たちからも沢山の喝采をもらった。
 
若手の反骨心のようなものを評価してくれる社風があった。
 
しかも、この年、幸いなことに私はカンヌの現地で、
自分の出品したCMで会場全体が割れんばかりに笑ったのを直に目撃することができた。
 
それは、こっそり出品していることを局長に話し、
「受賞すると思うから行かせて欲しい!」と直談判したら、
局長も「オレも、これは面白いと思うから、行ってこい!」
と局費で行かせてくれたからだ。 
8ヶ月前、その局長の出した人事案を私は拒否したのにだ。

「面白いものにはフェアであること」
「周りの声に流されず、自分の感覚で面白いものを大切にする」
  
というクリエイティブ部門のマネージメントをする上で大切な姿勢を学んだ。
  
この時のことは、後に外国の広告会社で働き、
外国人の部下を持ってから役に立つことになる。
    
独立した今の立場から振り返ると、
2003年から、私の人生は大きく動き出していた。
  
 
   

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