リレーコラムについて

動いてるナカハタさん。

児島令子

はじめて動いてる仲畑さんを見たのは、
1986年、私が新人賞に落ちた悲しい年でした。

地球は自分を中心に回っていないことが、
あらためて証明された年でした。

仕事を出してくれていた代理店のCDが、
傷心の私に、コワイことを言うのです。

「仲畑さんに会って、
何がダメだったのか聞いてくるべきだ」

「傷跡に塩を塗るようなことはしたくないの」と私。
この挫折を抱きしめることしか、いまはできない…。
はい、ダメパワーマックスな状態です。

「新人賞どうすんの?
それって生き方の問題だと思うけど」

わぁ刺さった。そうだ生き方の問題だわ。
なりたかったコピーライター。欲しかった新人賞。
仲畑コピーに傾倒し、年鑑を教科書に、
この大阪でひとり手探りでやってきたんだ。

今日ダメだったからと、
それを安易にダメパワーにしちゃ、ダメダメだわ。

関係者のご尽力で、(ホントに感謝!)
仲畑さんと15分だけ会えることになりました。
仕事のファイルをかかえて上京。
どんな15分だろ?ドキドキ。
15分あれば、朝ドラでもスゴイ展開あるもんね。

あこがれの乃木坂の仲畑広告に行くとまず、
あこがれの副田ADが、
寡黙な職人のごとく仕事に没頭する姿が目にとびこむ。
写真家の坂田栄一郎氏が、
お酒の瓶をお土産にぶらりのぞきに来てる。

ああすごい…なにもかも東京だ。

(朝ドラナレーション風に)
じつは令子は、この副田氏、坂田氏と、
12年後にサントリーウイスキーの仕事でタッグを組み、
なんとTCC最高賞をとることになるのですが、
当時の令子はそんな運命が待っていることなど
知る由もありませんでした。
もちろん、副田氏が寡黙な職人でなく、
おしゃべりな横丁のおじさんADであることにも
令子はまだ気づいていないのでした。

仲畑さんの部屋に通されると、
年鑑で見た仲畑さんが動いてる!笑ってる!
私のコピーを見て言葉をくださいました。 
15分を超えて30分も!朝ドラ2回分です。

帰りの新幹線で、
ダメパワーはすっかりポジに変換され、
翌1987年、私は新人賞をとったのです。

以上が、私の「挫折からの飛翔」でした。
パチパチパチ。

え?
仲畑さんからどんな魔法の言葉をもらったかって?
いや、魔法はなかったです。
仲畑さんは魔法使いじゃなかったです。

うまく言えないのだけど、私の中にある、
これまで読んだ学んだ仲畑さんのコピーや発言が、
ナマの仲畑さんと会うことで、
ああそういことなんだ!と
グワーンと腑に落ちた感じなのです。

コピーって不思議だな。
あるとき、何かをきっかけに気づく。
今夜はダメでも、明日気づくかもしれない。
いまは泣いていても、
1ミリ先に書ける自分がいるかもしれない。

そしてその気づきは、
「気の持ちよう」に近いかもしれない。
いや、コピーは気の持ちようだと思う。思いたい。

私は仲畑さんに会うことで、気づくスイッチが入り、
気の持ちようが変わったのかな。
でもそうなれたのは、
それまで試行錯誤していっぱい考え悩み、
書いていた自分がいたからだとも思うのです。

とんちんかんなコピーも、
とんちんかんだったと気づいたとき、
意味のあるものになるのですね。

若くして独立してしまった私は、後にも先にも、
自分の仕事を誰かに見てもらうという行為をしたのは、
このときの仲畑さんだけ。
でも、このとき与えてもらった小さな確かな体験が、
ひとりでやっていく糧になりました。

仲畑貴志さん、ありがとうございます。
ホール・オブ・フェイム、おめでとうございます。

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というわけで、3回目のリレーコラムですね。
予定では3回目は2024年頃に書くはずだったのに、
長谷川くんにクマのトロフィー渡したばっかりに、
こんなことになってしまいました。
しかもハードル、思いきり上げられちゃってるし!!
でも、長谷川くん、
「バクハツしなくても、芸術でございます。」
という私のコピーを紹介&解説までしてくれたのは
嬉しかったベンキョーなった。ありがと。

ではみなさん、金曜までなんとか書きますので、
おつきあいください。

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