リレーコラムについて

あの日、揺れたもの。

勝浦雅彦

それは2011年が明けたばかりのころ、
1月の寒い土曜日のことだった。

当時福岡にいた僕は、前日の深夜勤務の疲れもあり、
自宅の布団で深い眠りのなかにいた。

と、枕元のケータイがけたたましく鳴り出したのである。
土曜日の午前中に鳴動するケータイ。
眠りから引き戻された僕はそれをとる事ができず、
着信は切れた。
ぼんやりした視野のなかでケータイを手に取り、
ディスプレイに目をこらした。
そして、不在着信先を見た瞬間、ぞわっと寒気を覚えた。

千葉の実家に住む、父だった。

父の性分、行動パターン、息子との関係性、すべてを俯瞰し、
あらゆる状況を瞬時に推測しても、
「土曜日の午前中に、父自らがケータイに電話してくる」
可能性はゼロに等しい。

しかし、父は受話器を手に取った。

それは、ほぼ間違いなく、火急かつ、
けして良くないニュースがもたらされる事を意味していた。

はたして、折り返した電話に出た父は、
几帳面な性格そのままに淡々と僕に告げた。

「年末からほぼ判明していたのですが、お母さんが、癌です。
乳癌です。ステージは4です。
免疫が落ちているので、すぐには見舞いに帰ってこないでください。
また連絡します」

電話を切ったあと、しばらくぼんやりしていたのを覚えている。
あまりに父が冷静なので、
「なにか原稿でも読んでいたのかな?」などと、
どうでもいいことを考えていた。

親戚の少ない核家族に育った僕は、
「身内が病気になる」という状況をほとんど知らずにいた。
それが、正月に帰ったとき元気そうにおせち料理をつくっていた
母が当事者となり、しかも癌だという。

きっとなにかの間違いなんだろう、根拠も無くそんなことを考えていた。

その夜、母と電話することができた。声は予想以外に明るく、

「なっちゃったものは仕方ないから、治療を頑張るわよ。
あなたは、あまり気にしないで仕事に集中しなさい」

「いま、どんな状態なの?」

「とりあえず抗がん剤治療がはじまっています。いろいろ、免疫が落ちて、
副作用が出るみたいだけど個人差があるみたいだから。
今は普通に暮らせています。落ち着いたらお見舞いにきてね」

その日から、空き時間に癌について、ネットで調べる日々がはじまった。
とにかく落ち着かない。
なにせ、いつ見舞いに千葉に帰っていいのか、父の指示を待つしかないのだ。
ステージ4を調べると、「末期の一歩手前」とある。
「末期」…?
今まで自分の人生にまったく関係のなかった単語が胸にのしかかってきた。

女性にとっての抗がん剤治療の辛さは、倦怠感、口内炎、しびれ、といろいろあるが、
頭髪が抜け落ちること、とよく言われる。

2月に入ったころ、母からケータイに送られてきた画像には、
少し痩せ、カラフルなターバンのような帽子を被った姿が映っていた。
頭髪を隠すためである。
うちの父は髪が薄いので、「夫婦揃って、仲良く出家したみたいだ」
と母は電話口で笑っていた。

あきらかに病状は進行していた。

その月の検査状況が判明し、抗がん剤が一定の効果が出ていることが確認され、
ようやく見舞いに行ける事になった。

3月の金曜日、僕はエアを予約し、大きなボストンバックをもって出社し、
黙々と仕事をこなしていた。

飛行機は19時台だから、17時半頃に会社を出れば余裕で間に合う。
元気ではない様子を見に行くのはけして晴れやかなものではなかったが、
とにかく会いにいかなくては。その一心だった。

午後14時を回ったころだった。
ふと、フロアに異様な雰囲気が漂っているのを感じた。
社内を見回すとみんなが部屋の中央にあるテレビの前に集まっている。

「何かあったんですかー?」

軽いノリで駆け寄った僕は、声を失うことになる。
テレビの画面には、空撮の映像で津波がものすごいスピードで陸地に迫り、
家屋や田畑をなぎ倒す姿が映し出され、
会社の同僚達は食い入るように黙ってその様子を見つめていた。
そのとき、ようやく絞り出した僕の第一声はこんなものだった。

「これ…、日本ですか?」

九州はほぼ揺れる事無く、その場にいた皆は、
直後はまるでどこか遠い国の出来事のように震災を見ていたように思う。

「病気の母は?家は?父や兄は?」

我に返り、気を取り直して、慌てて電話をかけたが、まったくつながらない。
ケータイも、会社の電話も諦め、外の公衆電話へ走ったが、
やはりつながらない上に、同じような人が後から駆け寄ってきて、
長蛇の列をつくった。

らちがあかないので、航空会社に連絡を入れると、
「お客様、飛行機は今のところ予定通り飛びますが…」

このころ、既に都心部の各鉄道は完全にマヒしていることが報道されていた。

「羽田に着陸できずに引き返す可能性、もしくは着陸できても交通機関が
正常に動かない可能性が高いと思われます」

結局、東京入りを断念し自宅に戻った。
その日は家族と連絡がとれず、一睡もできず、
ひと晩中不安な気持ちのまま、延々と放送される報道番組を見ていた。

2011年3月11日。

あの日、九州は揺れなかった。しかし、激しく揺れたものがたくさんあった。
被災しなかった人間にも、震災は大きな爪痕を残している。

そして、あと1週間で丸5年が経ち、
少しづつあの日がおぼろげな過去になりつつある今、思う。

直後、我先にと震災という事由に群がった業界の内外の人々は何をしているのか。
それは、感傷的で利己的な功名心の発露ではなかったと言い切れるのか。

被災地とまったく関係ない地域で企画書の冒頭に
説得材料として必ず震災のパートをつくり、
「絆」「愛」「家族の結びつき」とうそぶいた人々は、いま、何を思うのか、と。

小さくても、ぼんやりとでも、忘れずに、時折、思う。寄付する。
口に出し、話題にしてみる。
軽薄でないなら、今一度、胸に手をあて考えてみるべきだ。自戒もこめて。

震災は終わらない。支援も、また。

やがて、この母の病と震災という二つのカタストロフは、
僕を東京へと強く引き戻すことになるのだけど、
その詳細は語るに長く、またオブラートに包まざるをえない
多くの事情を抱えているので、ここでは控えることにします。

母は僕がようやく東京へ戻った2013年3月27日、
つまり九州を辞したその日に、65歳でこの世を去りました。
間に合わなかったのです。
看病しながらいっしょに暮らす、という願いはかないませんでした。

最後は、手術の合併症で髄膜炎を発症し、
ほぼ意識の戻らなかった母ですが、
緊急入院した病院の集中治療室で、
手術直後の意識が朦朧としている状態でかわした、

「・・・あなた、ドイツに行く話はどうなったの?」
「ドイツ…?うん、ドイツはね、ちょっと延期だよ。
退院したらね、前みたいに家族みんなで暮らすんだよ」
「あら、そう…、でもあなた、ずいぶん苦労したのね…」
「え?母さんほどじゃないよ」

それが最後のまともな会話となりました。

なぜ母が脈絡無く、
ドイツという言葉を口にしたのかは、最後までわかりませんでした。
ドイツに行きたかったのかな、そんな話をしたことはなかったけど、
もし、そうなら連れていってあげたかった。

みなさん、親孝行をしましょう。

……………………

長々と好き勝手なことを書き連ねたコラムに一週間お付き合いいただき、
ありがとうございました。

なにか、ご意見・ご要望・依頼・会へのお誘い・冷やかしなどありましたら、

m.katsuura0922@gmail.com

までお願いいたします。

次週のリレーコラムは、九州で一緒だった電通の西村和久くんです。

西村くん、深夜に君の住むマンションに入り込んで、エレベーターのところで
驚かせてしまってごめんなさい。

それではみなさま、ごきげんよう〜。

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