リレーコラムについて

私をコピーライターにした男たち①

木村敦子

はじめまして。
副島さんからバトンを受け取った、17の木村敦子と申します。

最初のコラムなので自己紹介も兼ねて、
私がコピーライターになった経緯などを
「私をコピーライターにした男たち」というテーマで
5回にわたって書いてみようと思います。

100%自分!な内容で恐縮ですが、
話すと驚かれることも多いこの話。
お付き合いいただければ幸いです。

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そもそも、私がコピーライターという職業を知ったのは、
広告の会社に入ってから。
もともとは弁護士か司法書士になりたくて、
法学部を出た後も、法律の予備校に通っていました。

とはいえ、バイトもする必要があった私は、
「せっかくなら法律事務所で実務を積みたい!」と
法律事務所などにスタッフを派遣している会社に登録へ。
ところが、事務経験どころか社会人経験もない私に派遣先は見つからず、
なぜかその派遣会社で事務として働くことに。
それが、「広告の会社」との最初の出会いでした。

その派遣会社ではスタッフを集めるために
「とらばーゆ」や「リクナビ派遣」などの求人広告を
リクルートの代理店にお願いしていたのです。

『仕事を探している人と、人材を探している企業をつなぐ仕事』
の存在をそこで初めて知った私の胸の内には、
「自分も仕事探しで困ったから、今度はつなぐ側になりたい!!!」と
求人広告の仕事への情熱がフツフツと。。

その時たまたま、そのリクルートの代理店が
「とらばーゆ」で営業を募集しているのを発見したのをきっかけに
派遣会社も法律の予備校もあっさり辞め、
意気揚々と求人広告の世界に飛び込みました。

それが、最初の会社「クイック」です。

職種は、営業。
「コピーライターになるために、まずは営業から」という営業ではなく、
自ら望んで、純粋に営業になりたくての営業でした。

しかし今思えば、人見知りの激しかった当時の私に
営業職が務まるはずがありません。
半年で早速体調を崩し、休職することになります。

休職中、家からあまり出ない日々が続き
「このまま会社も辞めるんだろうな・・・」と思っていました。
しかし3ヶ月が経ち、体調が良くなってきた頃、
ある男性に呼ばれて、こう言われたのです。

「制作として、戻ってこないか」と。

その言葉には、驚きました。
また働かせてもらえることもびっくりでしたが、私が制作!?

(求人広告は、コピー・デザイン・データ入力・時には撮影なども
 1人のスタッフが行うことが多く、肩書きは「制作ディレクター」。
 クイックでは「制作」と呼ばれていました。)

確かに営業時代も、自分でもできる小さな枠の原稿を作るのは好きでしたが、
文章を書く仕事に興味を持ったこともなければ、
当時は本すら読まず、音楽にどっぷり浸かっていた頃。

しかしその男性は、私が営業職の面接時に
見様見真似で作った弟のバンドのフライヤーを
持って行ったのを覚えてくれていて、
「適性があるのではないか?」と提案してくださったのです。

それが、コピーライターの道への最初の一歩。
最初は様子見ということで制作アシスタントから始め、
1年後くらいから正式に制作ディレクターへ。
当初は悪かった体調も、制作の仕事をするにつれ、
どんどん良くなっていきました。

面接にフライヤーを持って行ったことなんて私自身も忘れていたし、
今でも「本当に持って行ったのか?」あまり自信がありません。

その男性が面接官じゃなかったら、、、
フライヤーの存在を覚えていなかったら、、、
休職した社員の行く末を案じてくれる人でなければ、、、
私は間違いなく、コピーライターにはなっていなかったと思います。

文字通り、私をコピーライターにしてくれたYさん。
制作になってからは変な自我が発生し、反抗した時期もあったせいで
TCC新人賞をいただいたことも、照れくさくてまだ伝えられていないですが、、、

社員がサッカーにハマっていると知れば、
そのチームの試合動向をネットで検索しては、
よく声をかけてくださったYさんのことだから
このコラムのこともどこかで知って、読んでもらえればなぁと。

でもそれではさすがに怒られそうなので、
今度クイックにご挨拶に伺おうと思います。
それまでに、コピーライターとして報告できることを
1つでも増やしておかなくちゃ。

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