引っ越しと焼肉
この階段を、もう何度往復しただろう。
まだ20代半ばだった僕らの息は上がり、汗だくで、足も腕もパンパンだった。
東京へ出て6年住んだ吉祥寺は居心地がよく、ずっと住んでいたい街だった。
ただ、妻のピアノが置けなかった。
マンションを買おうかとも思ったが、マンションにも嫌がられた。
URだけが許してくれた。
けれど新築は抽選で、当たりそうもなかった。
西武新宿線の古いURは、阪神タイガースが優勝した年に建てられたわりにモダンで、間取りが気に入った。
一人暮らしの引っ越しは、自分たちでできる荷物の量だった。
CDのコレクターだったとはいえ、その量は600枚ほどだったし、ブラウン管の14インチのテレビも、冷蔵庫も、掃除機も、小さな紺色のソファも、
大物の家具はすべて後輩がもらってくれた。
6畳+2.5畳ほどのロフトに入っている荷物は大した量ではなかった。
引っ越し業者に見積もりを取ると、10万だった。
価格競争がそれほどなかった時代だったからだろうか。
けっこう高いと思った。
まだ東急で営業をしていた頃で、仲のいい同期2人と、先輩の女性に手伝いをお願いした。
夕飯に焼肉をおごるという軽い約束で。
マニュアルを予想していたレンタカーの2トントラックはAT車に荷物を運び込むと、ガランとした思い出の部屋で不動産屋さんに鍵を渡した。
「きれいに使ってますね」
敷金はたくさん返ってくると思った。
思ったより多い段ボールが乗ったトラックの荷台を閉め、同期はトラックで、私は実家から1年前に持ってきた、一度は売りに出した昭和62年製のワインレッドのセリカで、新居に向かった。
1985年は阪神ファンになって2年目で、バックスクリーン3連発に夢を見て、それから長く阪神を応援した。
その年に生まれた家に住むことに少し縁を感じていたが、同時にその年は建築基準法が改正される前年だったらしく、エレベーターがなかった。
住むことに決めたのは、5階だった。
エレベーターがなかったから、景色のいい最上階が一番安く、でも住む人が少なかった。
それから、重い荷物は男3人で、軽い荷物は女2人で、階段を往復した。
夏の好天を、この日は恨んだ。
階段ですれ違うたび、「まだあるぞ」と訴える顔が、どんどん絶望感を増した。
おごる焼肉は安楽亭にしようと思っていたが、叙々苑に変更すると宣言した。
地道な同期たちの努力のおかげで、部屋は荷物でいっぱいになった。
夕方、ようやく終わりが見えたころ、妻が「実家に布団を取りに行く」とセリカを出動させた。
が、すぐに戻ってきた。
ついて行った先輩の女性が降りてきて「原、ごめん!」と謝ってくる。
続いて運転していた妻が降りてくる。
「左に曲がろうとしたら左下が見えんかった。」
左に回り込むと、ドアからリアにかけて、サイドが見事にえぐれている。
車の修理費用は10万円だった。
引っ越しの見積もりと同じだった。
桜の安田くんから紹介を受けました、シカクの原です。
安田くんは私が2浪して遅れて入った大学に現役合格していて、1年先輩として同じサークルに所属していたことが、
コピーライター養成講座「叩き上げコース」をいっしょに担当するようになって判明しました。
私はそのサークルはチャラすぎて1年しかいなかったのですが、安田くんは4年を全うしたそうです。
一週間よろしくお願いいたします。
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