狩猟民族のこと
海は砂浜ではない。
原家の辞書によると、そこは海水浴場という波のあるプールであって、本当の海は岩場のことを指す。
けれど子どもは砂浜が好きだ。
城を作り、その手前に掘を作り、掘った砂で城壁を構え、それを2層、3層にすることで、二の丸、三の丸と作ったところで、大きな波に城はあっさりと崩される。
ただそれを繰り返す。
男というのは単純で、作る、動く、壊れることが好きだ。
ただ父はそんな子どもらしさを許さない。
私が生を受けた山口県萩市(母の実家があり、宇部市出身の父も幼少期の夏はここで過ごした。)には、山陰でも有数の砂浜の海水浴場「菊ヶ浜」があり、幼少の頃からそこでよく泳いだ。
父の世代は萩に流れる川を泳いで渡ったり、菊ヶ浜から指月城のある半島を一周する遠泳があったり、それは海水浴ではなく、さながら軍事訓練のような泳ぎ方をしていたらしい。
その父と泳ぎに行く。
菊ヶ浜へ行くのは、曇りの日や波が高い日が多い。
幸い、海水浴場は波を防ぐ防波堤が、7〜80メートル先にあって、高い波を防いでくれている。
とはいえ、子どもにとっては押し寄せる波はずいぶん高い。
目指すのはその防波堤だ。
父は泳ぐ時にも目標を設定して、それを目指す。
2つ上の姉と私は、防波堤までクロールで行き、また帰ってくる。
10メートルも行けば、もう足は届かない深さで、休む術はない。
防波堤に行き着く以外は。
晴れた日や風の少ない日は菊ヶ浜へは行かない。
地元の人しかいない隣町の岩場に出かける。
堂々と「遊泳禁止」と書いてあるが、クラゲの出始めるお盆前までは、土日は地元の家族が2,3組くらいはいる。
父にとっては、目的がなければ海ではない。
岩場にはたくさんのサザエが棲んでいた。
今でこそ水産資源として罰せられるが、当時は漁をしている人も海水浴客が取る程度のことなら何も言わない。
父はここに来ると、サザエを探しては3メートル先を指さし、「あそこに大きいのがいる」とだけ言う。
小柄で細身だった小学生時代の私は、そんなに深くは潜れない。
「こんな深さも潜れんのか」という顔をされる。
姉が代わりに獲りに行く。
それでもダメなら父自らが行く。
サザエが獲れない小さな頃は、これがイヤで仕方がなかった。
海岸にごく近い浅瀬で、ウニに気を付けながら魚を探し、足の着く範囲の岩から岩へ泳ぐ程度が多かった。
サザエなんて、おいしいとも思わなかったし。
だから海は防波堤往復の菊ヶ浜のほうがまだよかった。
けれど体が大きくなってくれば、俄然岩場の楽しさは増してくる。
シュノーケルが顔の大きさに合うようになる頃には、多い日で100匹ほども獲った。(食べる分だけ持って帰ってあとは逃がした)
狩猟一家だ。
モリで魚を突き、蛸を追い詰め、ウニを割って食べた。
「岩場じゃないと海じゃない」
いつしか父と同じことを言うようになった。
今年、息子たちを連れて、20年ぶりくらいに父といっしょにあの岩場を訪れた。
平日だったからだろうか。
素潜りの漁師は船を出しているが、他に誰もいなかった。
サザエを獲る楽しさを教えたい。
と思う間もなく、長男は浅瀬のウニを踏み抜いた。
かつて裸足で歩いた浅瀬を、今はウォーターシューズで歩く。
それも見事に貫通していた。
そこから完全にウニ嫌いになり、泳ぐどころか歩くのを怖がるばかりだった。
サザエは取り放題だった。
目は衰えていない。
波への対処は体が思い出してくれた。
食べる分だけと思いつつ、ここでは書けない量になった。(もちろんある程度逃がした)
戦利品を手に祖母の家に戻ると、「刺身にするやり方を見ときなさい」と言って、母が孫たちの前で大きな石で豪快にサザエを粉々に砕いた。
いま動いていたサザエを楽しそうに眺めていた孫の気分も粉々に砕いて見せた。
私は刺身も壺焼きも最高のぜいたくとわかる歳になっていた。
夏休みを終え、東京に戻った。
来年また、あの岩場に戻ってこれるだろうか。
海の楽しさは伝わっただろうか。
再び仕事に邁進する日々が始まり、海は遠い日のことになろうとしていた。
夏の終わり。
ウニを踏んだ長男が言った。
「夏休みの自由研究、サザエとウニを調べたい。」
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