ナカハタ創業始末
〜其の壱〜 一輪の竜胆の花を持つ男
千代田区丸の内1の1の1。それが、タクシーを飛ばして向かっている目
的地の住所だった。そこは、ぼくが14年間通い続けた場所でもあった。そ
の頃のぼくは、田町から赤坂への引っ越しを間近に控えた業界2位の広告代
理店に草鞋を脱いで二年ほど。やっとなんとか、ほんの少しだけ代理店のシ
ステムにも慣れはじめ「もう、ここでお終い。一丁アガり」自分の広告屋と
してのキャリアは、この代理店で終わるのだろうと考えていた。外様だから、
それほど明るい未来はないだろうけれど、それはそれで自分らしいのではな
いかなどと、愚にも付かない言い訳を並べて、安定を求め落ち着こうとして
いる不惑半ばの阿呆ひとり。
車窓にひろがる当時と変わらない懐かしい景色を楽しんでいる余裕はなか
った。気ばかりが急く。内堀通りを渋滞に巻き込まれながら這うタクシーの
左手に皇居前広場が見えてくる。その向こうにある西の空も、晩秋の朱色か
ら深い藍へとその彩りを変えようとしていた。ほどなくして左手に和田倉噴
水公園が見えてくる。タクシーは、大手門の信号を小さくUターンしながら
旧いホテルの車寄せに吸い込まれてゆく。
完全に遅刻だった。愚連隊のぼくを拾ってくれた広告制作会社の大先輩監
督を偲ぶ会が、きょう、この旧いホテルで開かれていた。ぼくが数年前まで
末席を汚した広告制作会社と隣接するこのホテルの会場には、おそらく名だ
たる方々、コワいパイセンたちが列席しているはずだ。気が重い。ちんぴら
一匹、しめやかに執り行われている匠の偲ぶ会に余裕の遅刻という態は、塩
梅が良くなかった。このまま会には出席せず、ホテルの1階にある行きつけ
バーで一杯ひっかけてからフケてしまおう。ぼくの耳朶に悪魔の甘い囁きが
響く。
脚は、2階広間の会場ではなく1階のバーへと向かっていた。歩きながら
ジャケットの内ポケットを探る。タバコがないことに気づく。ぼくにとって
酒精と紫煙は一心同体。ふたつでひとつ、ドラえもんとのび太、スヌーピー
&チャーリー・ブラウン、とにかく相補的関係にあった。
14年も通った場所、どこになにがあるかは熟知していた。地下1階奥に
あるタバコの自販機へと無意識のうちに向かっていた。そこに、その男はい
た。正確に言えば、その会社の大大先輩で、さらに念には念を入れて申し上
げるなら、ぼくにとっての広告のオヤジが自販機の前でひとり、ちょっと不
機嫌そうに佇んでいた。惚けたように立ち尽くすぼくに気づくオヤジ。
「なんや、もう献花済ましちゃったの?」
「いえ、まだです。つか、なかはたサン、もう会はじまってますよ」時計
に目をやりながら焦るぼくを横目に「エラソーな奴等がゴチャゴチャ挨拶して
るから、タバコ買いに出てきた」
「そりゃ偲ぶ会ですから…つか、なかはたサンも偉いひとじゃないですか」
さらに焦れるぼく。
「それよりちょっと話がある、そこでビールでも飲もうか。付き合え」
オヤジの掌には、まだ献花されていない一輪の竜胆がゆらりと握られてい
た。まるで匕首のように。
つづく