ナカハタ創業始末
〜其の弐〜 逆流性食道炎を呼ぶ男
「ちょっと話がある…付き合え」オヤジからの有無を言わせない筆圧の高い
セリフに、偲ぶ会のことも、バーの止まり木のことも忘れて、曖昧に、しかし
何度も頷く。オヤジの掌にある得物のような一輪の竜胆にぼくの目は釘付けに
なったままだ。
このホテルに隣接した広告制作会社時代に、残業飯をよくかき込んだ地下階
にあるレストランへとオヤジに連行されるぼくのアタマの中は混乱していた。
ここ数ヶ月の自分の行動をしどろもどろに反芻する。もしかすると、自分では
気づかないうちに何かとてつもない不作法をオヤジであるなかはたサンにやら
かしてしまったのだろうか。イヤな汗が一気に吹き出て背中を伝う。
二年前、今いる広告代理店への転職の相談をしたときに一度は猛反対された
ことを思い出す。最後は「ま、オマエらしいか。逆張りだな」と笑って転職を
許してくれたが、まさか、その話を蒸し返されるのか。愚にも付かないネガテ
ィヴな妄想がつぎからつぎへと浮かんでは消える。
席に通されるオヤジとぼく。サビルロウのビスポークテーラーで仕立てたス
ーツに坊主頭でステッキを突いて歩くなかはたサンと塩垂れた金髪コーンロウ
のぼくを見てウエイトレスさんの表情もかなりこわばっている。彼女の目に、
ぼく達がどんな商売の男たちに映っているかは推して知るべしだろう。
「サンドイッチちょーだい。あとオレンヂジュースね」
至極健やかに明るく注文をするなかはたサンの横で、全体的に90%ほど縮
小されたぼくも同じものを頼もうとすると「ビールにしちゃえよ」とオヤジの
とても明るいひと言がハイキーなのにぼくの中に重く低く響く。
「はい、ビールお願いします…」
オヤジとぼくの遣り取りを、凍った表情のまま凝視してたウエイトレスさん
が、足早にテーブルから離れていった。そのときを待っていたかのように、オ
ヤジが切り出した。
「どう、ハクホードーは?」
「ハイ、とてもよくしてもらってます」やはりその話だったか、心の中で予
感が的中したことをぼくは呪った。
「あっ、そっ、よかったね」
「…はい、ほんとにもう…よく…」
オヤジとぼくの会話は弾まなかった。まったく弾まなかった。まるで体育館
の用具部屋に転がっている空気の抜けたバスケットボールのように弾まなかっ
た。目の前にあるビールの泡が、またたくまにしぼんでいく。ほんの数秒の沈
黙。それに耐えられなくってグラスを慌てて口元へ運ぶぼくをじいっと見据え
て、オヤジが口を開いた。
「会社、もう一回つくろうと思うんだ」
まったく予期していなかったなかはたサンの言葉に、飲み下し掛けたビール
が食道を逆流する。ホップの苦みと共に、呑酸のような酸っぱいものまで込み
上げてきて二の句が継げない。言葉を無くしてしまったぼくを尻目にオヤジは、
さらに驚愕の言葉を口にした。
「手伝わないか…」
にこにこしながらオレンヂジュースをストローからちゅちゅーっと啜るオヤ
ジの目はガチだった。
ぼくは、胸の裡で「赤紙が来たぁぁぁ。召集令状やぁ」と快哉を叫んでいた。
つづく