私になりそびれた
荒野を突っ切る一本の道路。
国境の町エル・パソまであと何マイルだろうか。
ゆらりと波打つ逃げ水の先に、
赤くて丸い巨大な物体が浮遊している。
俺が目を凝らすと、
真っ赤な円の輪郭がくっきりと浮かび上がった。
気球だ。赤い気球が飛んでいるのだ。
その瞬間、俺の背後で声がした。
「はい結構ですよー」
のぞき穴から目を離した僕に、検眼担当の女性が言う。
「左目に若干、乱視が入ってますね」
ここは眼科。コンタクトの町アイシティのはずれにある。
メガネ中心の生活にすっかり飽きた僕は、
コンタクトレンズを新調しに来ているのだった。
こんにちは、魚返です。
テキサスから東京へ。俺から僕へ。
きょうは、「男のみなさん一人称どうなんですか問題」
について投げかけておきたい
(視力矯正の経験がない人には
分かりづらい導入ですみません)。
僕がふだん使う一人称は3つある。
「僕」「俺」あと「魚返」だ。
(最後のは一人称と三人称の中間とも言える)
メインは最初の2つ。
誰かと(誰かに)話すとき、LINEやメールで文字を打つとき。
日に何度も、僕と俺を行き来しながら、
実際に僕になったり俺になったりしている。
「こないだ僕が…」と話しはじめたのに、
「俺のスマホに連絡くれる?」で終わったりする。
自我のフォルムなんて、数秒ごとに入れ替わる。
「私」はどうなの?私にはいつなるの?
そこなんですよ。問題は。
一人称「私(わたし)」を、手に入れそびれた。
という感覚がずっとある
(コピーのなかでは使いこなしますよ、念のため)。
試しに「私」で書いてみたコラムが
これ https://dentsu-ho.com/articles/5752 だけど、
ご覧のとおり最後には破綻している。
それで、男性の皆さんに聞きたいのは、
いつ、どのタイミングで「私」になったんですか?
ということだ。
年上の女性に優しく手ほどきを受けて、とか。
先輩と行った旅先のバンコクで、とか。
酔って駐輪場で寝ている間に無意識に、とか。
みんな「私」になった瞬間があるはずなのだ。
なのに、友人から事前相談や事後報告の
ひとつもされたことがない。
しれっと、こっそり、手に入れるのか?
そういえば前に入社試験の面接官をやったとき、
学生さんに志望動機をたずねると、
「はい、わたクシは学生時代…」
この男、いや、漢…もう済ませてる(しかも「クシ」まで)!
なんてこともあった。
「趣味は音楽って書いてあるけど、どんなの聴くんですか?」
「わたクシの場合は、パンク全般にハマっており…」
おい、PUNKSなのに「クシ」なのか!
一方で、同じ職場の人たちを観察していると、
これはもしかしてこっち側の人間では、
と疑わしいケースもある。
たとえば先輩Kが、「わたし」って
発音したように見せかけて、
こっそり「たわし」って誤魔化したのを
俺は聞き逃さなかった
(もちろん警察には言わずにおいた)。
そうこうする間に、僕も30代後半。
いまから私になるタイミングや流れを、
自然に作るのはなかなか難しい。
俺がすべきは真摯なる取材なのではないか?
そう思って、一緒に仕事をしている
営業のミミザワ(仮名)にたずねてみた。
僕「ミミザワくんさ、メールとか打ち合わせで、
自分のことを『私』って言うことあるよね」
ミ「ありますね」
僕「いつから?」
ミ「えっ!?」
僕「いつ、どこで、そうなったの?」
ミ「いやいやいや、ちょっと、やめてくださいよwwwww」
僕「おい草生やすなよ。あと俺の世代だとwwじゃなくて
(笑)が主流なんだよ。んなことはどうでもよくて、
『私』になった時のこと教えて」
ミ「こんなとこで言わなきゃダメですか」
僕「言うのが嫌なら、『追ってメールします』とかでも」
ミ「勘弁してください、
魚返さん、ぶっちゃけイチハラですよ」
僕「市原?」
ワ「一人称ハラスメント」
僕「そこコピーワークすんなよ!」
はぐらかされてしまった。
コピーワークされてしまった。
今日も、僕の知らないところで、
一人また一人と、男たちは
「私」を手に入れているに違いない。
結局のところ、僕が訪れた町すなわちアイシティの
古いことわざにあるように、
「合わないコンタクトは目を傷める」
「人は自分の視野に合うコンタクトしか選べない」
ということなのだろう。
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