ナショ研
ナショナル宣伝研究所の社長は竹岡さんといって、
運転手さんつきの、でっかいビュイックに乗って、
カシミアのいいコートを着て、
社員50人をトゥールダルジャン(もちろん日本の)に
連れていってくれるような人でした。
常務であり奥さんであった竹岡美砂さんは、
その頃はもうコピーの仕事はされていなかったのですが、
TCC創成期の草分けコピーライターで、週刊誌で
「松下電器をカゲで操る才女」的な記事になる人でした。
会社の1階は小さなロビーになっていたのですが、
あらま、あんなとこにおじいちゃんが座ってるわ、と思うと、
そのおいじいちゃんは、ひとりフラリとやって来た
松下幸之助さんだったりしました。
なんか、ビッグでゴージャスな環境でした。
ナショ研には、「松下・命」だった竹岡さんの
独特の美学と哲学が流れていました。
私はADC年鑑とかに出ているような、その頃流行りの
ファッションぽい写真とか、いい空気感の写真とか
そんな広告がつくりたくって仕方なかったのですが、
竹岡さんは、冷蔵庫をドーンと横に倒してレイアウトしたり、
炊飯器をまっぷたつに割ったり、きれいな家庭画報のページに、
モーターの鉄の塊だけを見せるような広告をつくる人でした。
古い!!!んだけど、古い新しいなんて超えちゃってる、
パワーのある、おじいちゃんでした。
オマケで入った私は、本命コピーライターが入社しなかたっため
いきなり冷蔵庫担当のコピーライターになりましたが、
そんなに忙しくもなく、夜のつきあいに異常に参加しました。
会社の裏にあった、たぶん六本木一安い“なか”というお店で
防衛庁の灰色のオジサンたちに囲まれて飲んだり、
ツケのきく“おつな寿司”では、
「ゲソワサばっかり食うな。うちは寿司屋だ!」とヤスさんから
怒られたり、ディスコで黒服とケンカしたり、
終電も過ぎた深夜は会社の塀をよじ登って忍び込んだり、
前歯も2本折ったり。
同じプロダクションに3年以上もいるなんてバカだわ、
と思っていた私が、結局12年間もいることになるなんて、
この頃はまだ思ってもみませんでした。
そういえば、竹岡さんの命日って、今頃だったような気がする。
忘れてごめんね、社長。もう十数年もたつんですね。