静かの海
俺は、11歳。
好きな歌手は南沙織。なかでも、『純潔』。
レコードは買ったことありません。高いじゃん。
あ、でも、南沙織の下じきは自慢です。
7月から肺炎で入院しました。へっちゃらです。もう軽いし。
いつもの夏なら、海とプールと野球で、まっ黒けになります。
今年は、まっ白けっけです。六年四組で一番色白のミキオが
見舞いに来たとき、俺のほうが白くて、頭にきました。
それからは病院の屋上、命です。陽にあたってます。
4階建ての屋上からは、
となりの市営球場のグランドが、見下ろせます。
たいてい、野球をやっていません。
市営球場っていうのも、ひまなんだと思いました。
でも春は、市の小学校野球大会があって、
俺は野球部のレギュラーで、球場の中で試合してました。
優勝候補だったのに、ニ回戦負けでした。
泣いたかって? なわけ、ないです。先生が一番がっかりしてました。
あたり前です。先生の作戦がミスって負けたんだから。
あそこは、絶対バントじゃなかったです。
夏になって、入院して、いまはここから球場を見てます。
ひまなのは、俺のほうかもしれないです。
ある日の昼過ぎ、屋上に行ってみたら、看護婦のヨシカワさんが、
煙草をすっていました。すごく、はすっぱな態度です。
煙草はチェリーです。年はハタチ過ぎって言ってたけど、どうだか。
ときどき、こんなふうに屋上で息抜きしてるのです。
「来た来た」
ヨシカワさんが笑って、俺を手招きします。
「こっちこっち」
「何」
「肩もんで」
「やなこった」
「こーら、生意気いうな。いつも少年マガジン
買って来てあげてるでしょ。今週号ぶん、もんで」
俺は、降参するしかありません。
マガジンは、病院の売店には置いてないのです。
「ほんとは禁止なんだよ。看護婦が、外で患者さんの
買物するのは」
「へいへい」
肩をもみながら、俺は、この前、屋上で思ったことを
口にしました。
「なんか、月面のクレーターみたいだよね」
「げつめん? 何が」
「あれ。市営球場。形が月のクレーターっぽい」
「うーん、そうかもねー」
「月に、静かの海ってあるの知ってる? 」
「ああ、聞いたことある。アポロのとき」
「水がないのに、なんで海なの? 」
「さあ。昔、海があったとか」
「だとしても、今ないわけじゃん。
なんか、無理やりって感じする」
「わかんないなー、私には」
ヨシカワさんは、もう話には興味なさそうに
あくびを一つして、さーて仕事仕事、と戻って行きました。
8月の終わり、俺は退院しました。
その一週間後、もう一度、病院に検査に行ったときのことです。
無事終わって、病院を出ようとしたら、
後ろから声をかけられました。
「オッス」
ヨシカワさんです。相変わらずです。
「私も帰るとこ。一緒に帰ろ」
うなずく俺を見て、ヨシカワさんは何か思いついたような、
いたずらっぽい表情をつくって、こうさそいました。
「そうだ、クレーター、行ってみよっか」
市営球場のフェンスを
ヨシカワさんは、意外に軽々と乗り越えました。
俺たちはゲートをくぐり、グランドに出ました。
外野の芝生まで歩き、そこで二人して裸足になって、
また歩き出しました。
「チクチクするね」
「するね」
屋上からは見えなかったけど、けっこうな数のトンボが、
芝生の上を水平飛行しています。
前のほうを歩いていたヨシカワさんが振り返り、たずねます。
「ね、バク転できる? 」
できない男子にとっては、劣等感がわく質問です。
「全然。そっちは? 」
ニッと笑ったヨシカワさんは、そこで腰を降ろして、
慣れた感じで柔軟をはじめました。
「私、ずっと体操部だったんだ」
体がほぐれたのか、しばらくしてヨシカワさんは立ち上がりました。
スッと、背筋がいつもより伸びています。まっすぐです。
その姿勢で、くるっと反対側に向きを変えます。
なんだか違う人になったみたいです。
そして、かかとを一度ツンとあげてから、助走に入りました。
まるで、バンビが跳ねてるようです。トンボの群れをかき混ぜるように、
側転一回、バク転三回、最後は、ほとんどバク宙でした。
拍手です。尊敬です。本当にかっこいいと思いました。
手のひらの芝をはらいながら、ヨシカワさんは満足げです。
「あー、スッキリした」
「すごいすごい」
「二人で同時にできたらねー、もっとすごいよー」
ヨシカワさんが、とてもきれいに笑っています。俺も笑っています。
それ以外は、何も聞こえないくらい、球場の中は静かです。
静かの海です。静か過ぎるとかえって
なにかいる、という気配がして、ちょっとゾクッとします。
俺は、ふと、病院のほうを見上げました。
すると、屋上に、こっちを見ている俺が、いたのです。
嘘です。なわけ、ないです。
だって、俺は、ここに、いるんですから。
「帰ろっかあ」
ヨシカワさんの明るい声が、静かの海に、すい込まれて消えました。
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