「幸せ」の話。
(平日の夜は書く時間がとれるか不安なので、土曜から書かせてもらいました。ご了解ください>管理者)
幸せとはなんでしょうか。
僕は「美しき錯覚」と定義しています。
錯覚といっても、ニヒリズムでなくポジティブにとらえています。
恋愛もそう。
僕は来世で生まれ変わってもいまの女房とまたいっしょになりたいと願いますが、互いの心を疑うことなく死んでいけたら本望。
おおよそ人の心が関与するものは美しき錯覚でありたい。
人の心の正体は何か、井戸の暗闇を覗いてみても見えないものは見るべきではない。
見たことのない怪物におびえるよりも、錯覚のまま、どれだけ美しくイメージしておけるか、が大事と考えます。
錯覚とは相手があって可能になるもの。
だから、僕は「自分を幸せにするものは自分ではない」とも定義しています。
自分で稼いだお金を自分のために使っても、幸福感は訪れません。
僕はがんばって、妻子に財産を残したいと考えています。
妻子にできるだけのことをした、自分の力で幸せにしたはずだ、と確信したとき僕は幸せな気分にひたれるのだと思っています。
仕事においてもしかり。
自分は得意先やスタッフにできるだけのことをした、自分の力で幸せにしたはずだ、と確信したとき僕は幸せな気分にひたれます。
20代の頃高元さんというレミーマルタンのマーケ本部長にずいぶんよくしていただきました。
夜、仕事をしていると
「いまから銀座に来んか?」
と突然電話がかかってきて、行くとクラブを3軒くらい連れ回されます。
歌舞伎見に行こうとか句会につきあえとか、ご自分の趣味に引っ張り込まれました。
彼の口を借りると僕のコピーが「文学的」で、彼の趣味に合い、仕事がひどく楽しかったらしい。
いま、高元さんは立命館でマーケ学の教授をされています。
数年前京都に遊びに行った時、接待をしてもらってずいぶん酔っぱらって気持ちよくなり、その夜、つい、できてしまったのが長女です。・・・娘には言えない話。
一昨年、エスティローダー酒井部長の脳腫瘍が悪化して手術が不可避となった時、僕は神仏に祈りました。
旦那さんを一人のこして逝けないでしょう?あの人はたしかに料理うまいけど、旦那さんと僕ら家族で鍋食ったって、あんまり楽しくない気がしますよ・・・それに、娘の結婚式に出るって言ってませんでしたっけ?
メシマコブを買い付けて飲ませたり、癌を治すという鳥取の気功師を探し当てて行ってもらったり、怪しげなものからなにから自分にやれるだけのことをしました。
僕のことを「コッシー」と呼ぶこの人が死んだらヤバい、僕の中のなにかが崩れると感じました。
酒井さんは毎年エスティローダーの化粧品を社販で買って、ダンボールで送ってきてくれます。
独身の頃はその時つきあってる女のものになり、結婚してからは母と女房が分けています。
いまはエスティローダーの仕事していないのに、つい先日もデカい箱が届いてました。
得意先、代理店、芸能人、一般人、部下、家族、僕にとっては同じ。
大事な人は大事。
大事な人が幸せそうにしていると、僕は幸せを感じます。
できれば僕の力でそうなってくれてると最高。
それがクリエイティブでもいいし、それ以外のなんでもかまわない。
たぶん周囲のスタッフは誤解していると思うのですが、僕がお得意と懇意にしているのは、仕事をうまくいかせるためにそうしているのではなく、そのために仕事をうまくいかせるのです。
プレイステーションの仕事をキープするためにSCEの役員と飲むのではなく、
「コシモちゃん、いまヒマ?」
「えーと、じゃあヒマになりましょう。」
という電話を大事にしたいから、仕事で成功し続けたいと思うのです。