リレーコラムについて

MERRYな出会い

森俊博

広告の仕事を続けるべきかどうか、
何度も迷ったことはあるけれど、
過去に一度、本気でやめようとしたことがある。

ちょうど30歳の時だ。
2つ目の会社でアートディレクターとして働いていて、
毎日、深夜2時とか3時にタクシーで帰っていた。
生まれたばかりの娘にも会えない日々。
そんな生活が続いていくことに嫌気がさしたこともあるが、
広告という仕事そのものにも疑問を感じていた。

何で俺は、他人の金儲けの手伝いなんかしてるのだろうか?
金を持っている企業がさらに儲けるために、何で深夜まで働いてるんだ?
何の役に立っているんだ、俺は、と。

たとえば震災やテロなどの災害が起きた時、
医者や看護師ならわかりやすく人を救えるし、
美容師なら避難している人たちの髪を切ってあげられる。
でも、広告屋なんて何もできないじゃないか。

もっと直接的に、人のために、世の中の役に立つ仕事がしたい。
子どもに誇れるような、人を救う仕事をしたい。

と思い詰めた僕は、何を血迷ったのか、医療の道へ進もうと決めた。
いろんな職種を調べた中で、人工心肺装置や人工呼吸器など、
生命を維持するための医療機器を扱う「臨床工学技士」を目指すことにしたのだ。
なんか他のに比べて珍しいしかっこいいなと。

きっと、相当疲れていたのだろう。頭がおかしくなっていたのかもしれない。

その資格を取るためには、看護学校と同じように、
3年制の医療専門学校に通う必要があるのだが、
入学するためには試験があるため、受験勉強をしなければならない。

もちろん仕事を続けながらなので、さらに寝る時間を削り、
受験科目である数学の勉強を始めたのだが、なんせもう30歳である。
サイン・コサイン・タンジェントとか言われてもなかなか頭に入ってこない。
しかも思い立ってから試験まで3ヶ月もないので、強制的にやるしかないと思い、
東京アカデミーで看護師を目指す女子高校生たちにまじり、集中講義なんかも受けていた。
いま考えると、本当にどうかしていたとしか思えないのだが、
そのときはそのときで必死だったのだ。

そして試験を受けて、無事に合格。
入学金の50万を支払って、会社に退職する意思を伝えた。

そしてこのあと、なぜまた広告の道へ戻ったのか。
それはある人との出会いがきっかけだった。

翌年の3月に退社することは伝えていたけれど、
まだ数ヶ月の時間があり、その間は普通に仕事をしていた。
毎月発行される名古屋市の広報誌を作る仕事を担当していて、
ある号で名古屋出身の作家やアーティストを特集することになったのだが、
その中の一人が、アートディレクターの水谷孝次さんだった。

ご存知の方もいると思うが、
「あなたにとってMERRY(楽しいこと、幸せなときなど)とは何ですか?」
と問いかけながら、世界中の笑顔とメッセージを集めたアートプロジェクト、
「MERRY PROJECT」を立ち上げた方である。
その活動についてはホームページを見てほしい。
http://www.merryproject.com/

いまではものすごく巨大なプロジェクトとなっているが、当時はまだ立ち上げてから5年目。
笑顔の展示だけでなく、街のクリーンアップ(ゴミ拾い)を始めるなど、
活動の幅をどんどん広げていた時期だ。
2年後には愛知万博も控えていて、いくつかの大型プロジェクトも動いていた。
当時いた僕の会社も万博の仕事をしていたので、取材の時の雑談でも自然とその話題になった。

「じゃあせっかくだから、何か一緒にやりましょうよ」

屈託のない笑顔で水谷さんがこう言ってくれたのだが、
僕はまあ社交辞令だろうと思い、

「いいですねえ、ぜひやりたいです!」

なんて笑いながら返事をした。
もう数ヶ月後には会社を辞めるんです、なんて言うのは、
気持ちよく取材を引き受けてくれた相手に対してナンセンスだ。

そもそも、それで終わると思っていた。

取材から2日か3日後くらいだろうか。
会社のデスクに段ボール箱が届いていて開けてみると、
メリープロジェクトの資料がどっさりと入っていた。

水谷さんからも電話がかかってきた。
「打ち合わせしましょう!一度東京の事務所に来ませんか」と。
水谷さんは機関車のような人である。
想いを実現するために、どんどん人を巻き込んで前に進んでいく。
その熱量は、僕が人生で出会った中でナンバーワンだ。
ここまで純粋で、情熱的で、行動力のある人はいない。

僕は観念した。やるしかない。
もうすぐ会社を辞めるんですとはとても言えなかった。

それから東京の事務所に行き、いろんな話をさせてもらい、
万博に向けての企画アイデアも一緒に考えて、僕が企画書をまとめた。

そうするうちに、僕の中の気持ちが大きく変わっていった。
そりゃあ、メリープロジェクトである。
万博でこんなこともできないか、あんなこともできないかとアイデアを考え、
企画書を作るのが楽しくないわけがない。

そして、広告で培ったデザインやアートの力で、
世の中を明るくできるし、人を元気にすることができるんだということを、
これでもかというくらいに思い知ったわけである。

もう一度広告に、クリエイティブの仕事に向き合ってみよう。
そもそも僕はまだ広告の世界で何も残していない。
ちゃんと力をつけて、世の中に役立つものを作ればいいじゃないか。
クリエイティブの力で、人の心を動かす何かを作りたい。

僕自身のMERRYが何なのかが、はっきりとわかったのだ。

医療専門学校への入学は辞退。(50万は戻ってこなかった・・・)
でも結局、会社はやめてしまったので、
企画がそのあとどうなったのかはわからないが、
水谷さんに直接会って挨拶できなかったことは今でも後悔している。

もう僕のことなんか絶対に忘れてると思うけれど、
もしまたお会いできる機会があれば伝えたい。

水谷さん、短い時間でしたが、
クリエイティブの本当の素晴らしさを教えていただき、ありがとうございました。
自分自身のMERRYが何なのか、ときどき迷うこともあるけれど、
あなたのおかげで、僕は今も広告の世界でもがいています。

NO
年月日
名前
5805 2024.11.22 中川英明 エキセントリック師匠
5804 2024.11.21 中川英明 いいんですか、やなせ先生
5803 2024.11.20 中川英明 わたしのオムツを替えないで
5802 2024.11.19 中川英明 ドンセンパンチの破壊力
5801 2024.11.18 中川英明 育児フォリ・ア・ドゥ
  • 年  月から   年  月まで