アイ・ドント・ノウ・ユー
こんにちは。
スコピー鈴木拓磨です。
今回リレーコラムのバトンをくれた
まさやんは新人賞の同期だ。
2018年、同期が初めて集合した
クラブハウスでの新人歓迎会が初対面で、
おれたち互いの名前を組み合わせれば
「鈴木雅之」
になるねという話をした記憶がある。
以来、まさやんとは仲良くさせてもらっている。
職場も住んでいる所も違うが、
おれが東京出張のときに何度か会った。
排骨担々麺やスタバをおごってもらった。
そういやコロナのときリモート飲みもした。
そんな
まさやんが
「たなかま」
と呼ばれていることを
おれは先週のコラムを読むまで
まったく知らなかった。
こういうこと、
最近めちゃくちゃあるな〜〜〜!
と思った。
友達のこと、
よく知っているようで
実は全然知らないという事実が
明らかになる瞬間。
知らないことには
知って初めて気づけるわけなので、
きっと今も知らないことが
もっともっとたくさんあるんだろう。
これは
会わずとも関係性を薄く維持できる
SNSの普及によるものなのか、
単にもともと
おれが薄情というだけなのか…
あるいは
SNSの普及がおれの薄情さを
ブーストしているのか…
いずれにしても
知らなかったことが
悲しいとかいう話ではなくて、
知らなくても友達になれるの
面白いな〜という話だ。
それを「友達」とは言わないだろ、
と思う人もいるかもしれないけれど。
人として、存在として
知ってさえいれば、
あとは詳しい情報なんて知らなくても
問題なく成立してしまう関係性が
友達というやつのような気がする。
というか、詳しく知っていたからって
友達になるかどうかはわからない、
大事なのはそこではない、というか、
そもそも相手のことをすべて知るなんて
たとえ同居の親族でも不可能なわけだし…
詳しく知られなくても
詳しく知ってなくても
友達になることはできるとして
じゃあ結局
「友達になる」ために
必要なことって
どういうことなんだろう。
ひょっとすると
「あ、おれたち、鈴木雅之じゃん」
みたいなことだったりもするのか。
するよな〜〜〜!
おれがコピーライターとして
クライアントと世の中の間に
差し出すことができる
「鈴木雅之」
ってなんなんだろうな〜〜〜!
なんなんでしょうね〜〜〜?
– – – – – – – – – –
知られるということについて
だらだら考えた1週間。
ありがとうございました。
バトンを渡すのは
名古屋のヒサオ・オオツカ、大塚久雄さんです。
おれは「大塚さん」と呼んでいますが、
普段はどう呼ばれているのでしょう。知りません。
以上、札幌から
スコピー鈴木拓磨でした。
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