ぼくが生まれてきた理由
うむ。しっかり目に恥ずかしいなこれ。我ながら迂闊なタイトルだと思う。あなたは、こんなフレーズを使ってみたくなったことはあるだろうか。普通、あんまりないよな。僕もあまりないんだけど、ふとした瞬間に、そういうことを思ってしまったことがある。思ってしまったのだから、もう、しょうがない。
とかく、幸福とは何か、生きるとは何か、人生とは何か、人間とは何か、、、。そんなことを、誰からも頼まれてないのに、ついつい勝手に考えがちな人生だった。しかし、いやだからこそ、なのか。時に、幸せというのは、驚くほど凡庸な形をしているものだと思う時がある。20年前なら、忌み嫌っていたものや、ことを、とってもストレートに体現していたりする。自分が。
さて。最初で最後の告白となる。恥ずかしさビッグバンで耳まで真っ赤になりながら、−196ダブルレモンを片手に(赤いのはそのせいにして)勢いだけで書いてしまおう。それは、子供達(二人おります)と日々過ごす中でのことだった。
あれ? 僕、この人たちに会うために生まれてきたのかも、、、と思ってしまった。
さーせん。今回、そういう話です。そういう話、苦手な方は、この辺でお引き取りいただきつつ。
というわけで、改めて。いや、改まって言うほどのことではないが、子供が驚くほどに可愛い。驚くほどに、と言ったが、古今東西、ヒトって、いや、哺乳類って?そういうものなのかもしれない。ただ、僕(自分が知ってる僕)にとってはなんか驚異的な可愛さだ。いや、もちろん、心配事は尽きないし、自分のこと以上に、全方位的に悩ましい。それでも、日々、愛おしさは増すばかりだから、全くどうなってんだ。困ったもんである。
もちろん、子供ができて、自分の中で起きたその驚くべき変化について、冷静に俯瞰してる自分もいる。一人目の子が生まれたばかりの頃、earth music&ecologyというブランドのCMで、宮﨑あおいさんに「心なんて遺伝子の罠だよ」と語らせた。それは自分で自分に向けての言葉だったかもしれない。その手の警戒心は、無くさずにいたい。でも、僕たちが所詮、遺伝子の乗り物に過ぎないのだとしても、それはそれで別にいいんじゃないかとも、思った。だって、こんなにデレッデレに目尻が下がり過ぎて、地面にくっつくくらい楽しいんだもん。(余談だが、って全体的に僕の文章なんて余談なんだけど、子供ができてからものすごい速度で目が垂れ目になってゆく。由々しき事態である。)
僕らの仕事はなんだか忙しいし、なかなか休みも取りづらい。だから、僕は、平日でも、ちょっと時間が空くと、隙をついて子供に会いに家に帰る。習い事の様子を見に行く。時間が許せば、送り迎えまでしちゃう。夕方くらいに帰宅すると、二人は決まって「パパ2回目のお仕事行く?」と聞いてくる。夜に、打ち合わせやプレゼン準備、編集作業などが入ってると「ごめん!パパ行かなくちゃなんないんよ」と答えざるを得ないが、そう答えた時の悲しそうな顔や「だめ!行かないで!」と駄々をこねて僕によじ登ったりぶら下がってくる時なんてもうどうせいっちゅうねん。困るけど絶頂だ。夜に仕事の予定がなく「もう行かないよ!」と答えた時は「やったー!」とガッツポーズやらハイタッチやらしてくれる。おいマジか、なんだこれ。ごめん、オチはない。ほんとすみません。ただの惚気かよ。そうかもしれないです。もちろん、こんな信じられない事態は今だけ限定!超絶ボーナスタイムだってことは百も承知。だからこそ愛おしいのかもしれない。って、さーせん。もう少しだけ、続けます。
眠りにつくときに、朝起きたらまた子供達に会えると思って目を瞑る。世界一幸せな瞬間かもしれない。そして、冒頭のフレーズが頭を過ぎる。
考えてみれば、不思議な感覚だ。自分が生まれて、その数十年後に、この子供達は現れた。自分がこの子達に会うために生まれたというのは時系列的におかしい。しかしなぜかそう思える、、、。いやもしかしたらそう思いたいのかもしれない。
もう一つ、恥ずかしい話を。
上の子が生まれたときのこと。病院で、生まれたばかりの我が子を抱きかかえたとき、不思議な感覚に襲われた。自分には到底できっこない、出産と言うとてつもない大仕事(偉業と言ってもいい)を終えた奥さんへの感謝と尊敬と労いの気持ちを全身全霊で伝えつつ、僕(190センチ100キロの巨漢)の大き過ぎる両掌に収まる我が子を眺め、その重さを実感した瞬間だった。その子を通じて、自分の身体と宇宙とか人類とか歴史とかそういうものが繋がるような何か大いなるものに全身が貫かれたような包まれたようなその全ての何もかもに感謝したくなるような、不思議な、痺れるような感覚に襲われた。手のひらの中の赤さんは、まだ開かない目をかすかに動かしながら、小さな口はパクパクと何かを伝えようとしているようだった。涙が止まらなかった。
ここまで、我慢して読まれた方は、オイオイずいぶん赤裸々に話すじゃーんと思うだろうし、自分だってそう思いながら書いている。最後にその言い訳を。
前述のように、僕は、子供たちの存在に心から感謝しちゃってる。そして、そのことを、言葉にして伝えてもいる。ほぼ毎日「生まれてきてくれてありがとね」と、ことあるごとにカジュアルに伝えちゃう。「○○ちゃんのおかげでパパの人生、楽しくてしょうがないよ!」って。子供からしたら聞き飽きてるし、むしろ「ウザい」はずだ。いや、見栄を張って「はずだ」って言ったけど、実ははっきり言われてる。ウザいんですけどー、はいはい聞き飽きたそれー。って。でも伝えちゃう。どんなに二日酔いで睡眠1時間とかでも必ず起床して毎朝「だいすきだよ!」と言ってハグして送り出してる。欧米か(古い)。そう。伝え過ぎて、もはや、その愛が、当たり前というか、なんだか、挨拶みたいになってしまってるので、本当に心の底から思ってるのだということを、形にしときたいと思った。
かつて「愛は言葉で」という素敵なコピーがあった(気がする)。言葉で伝えないと愛は伝わらないぞ、と。ただ、愛っつーやつも、信用できないつーか、言葉にし過ぎると、それはそれで、軽過ぎやしないかと不安にもなる。チミたちに会うためにパパは生まれてきたんだよ、なんて重いしウザいし、だいたい時系列おかしいし、顔は毛むくじゃらだし(それはいいじゃないか別に)。
でも。
パパいっつもそんなことばかり言ってるけど本当にそう思ってるんだ。
ありがとね。
以上となります。
さて。これをうっかり読んでしまった奇特な方。いつか、そんな時が来た暁には、このコラムの存在を、うちの子たちに伝えてもらえませんか。どうかよろしくお願いします。てのがまた奴らにウザがられちゃうんだろうな〜。
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