やっぱ好きやねん
今日のタイトルは「やっぱ好きやねん」である。
そう、関西人なら知らない人はいない、たかじんさんの名バラードである。
最近、自分の関西回帰が激しい。
生まれも育ちも兵庫県の西宮だったが、大好きな兄が都内の大学に通っていたため、それを追いかけるようにして関西を出た。「関西はまあいいか。面白いものは東京に集まっている」と信じて上京したのである。
確かに東京は情報が早く、流行にいち早く手が届く。でも、どこかでずっと「関西人である自分のアイディンテティー」が置き去りになっていたような気がしていた。別にずっと関西弁が喋りたい訳ではない。関西から離れてみて初めて、関西文化が持つ魔力に今更ながら気付かされたという訳である。
ここ最近、関西で生まれた文化や食、伝統芸能といったものにのめり込んでいる。きっかけは上方落語だったかもしれない。桂米朝さんの落語を聴いていると、大阪江戸堀で育った自分の祖母や曽祖父の語り口を思い出して、懐かしさもあり、どんどん引き込まれた。
インドカレーと同じ兵庫県出身という繋がりで松尾貴史さんの文章をよく読むようになり、そこから中島らもさんの作品を読んだり、過去の関西の広告代理店が制作した広告を改めて見直してみることも多くなった。
また「やきもの」が好きなので、京都の骨董街に出かけるようになった。買えはしないけれど、じっと窓の外から大きな壺や茶碗を眺めているだけで、幸せな気持ちになれる。敬愛する川喜田半泥子も大阪出身である。
関西人にとって「アホやなあ」「ええ加減にせい」は褒め言葉である。「アホやなあ」という一言は魔法の言葉で、それだけで、言われた本人の失敗や愚行が成仏できる。ずっと気取って生きていくのは、人間しんどい。救いの言葉なのだ。
先日、西宮の実家に帰った時、近所のスーパーで鯛の切り身を眺めていて手を伸ばそうとしたら、
横にいた70歳くらいのご婦人も同じタイミングで手を伸ばし、譲り合うという体験をした。
「あ、どうぞ、どうぞ。」と私が言うと、ご婦人は「あはは、いややわあ!こんなこと、あるんやねえ。」と私に笑いかけた。
「これが、男女やったらねえ、恋でも生まれるんやけどねえ!」とどんどん話が広がっていく。
最終的には、そのご婦人は私のために美味しそうな鯛の切り身を選び「これが美味しそうやよ。」と言い残して、微笑みながら立ち去った。
私は完全に負けたと思った。
もう一度やり直そうて 平気な顔をして 今さら
やっぱ好きやねん やっぱ好きやねん
悔しいけど あかん あんたよう忘れられん
あまりに衝撃的な出来事で、歌こそは脳内を流れなかったが、その時の気持ちは「やっぱ好きやねん、関西」である。中島らもさんの言葉で「一人の人間の1日には、必ず一人、その日の天使がついている」という言葉がある。どんなに辛い日も、絶対に一人、自分に優しい人はいる。まさにそのご婦人は、コロナでため息をついていた、私の前に現れた天使だった。
もう時代は「もの」を売る時代ではないと言われて久しい。「もの」ではなく「こと」を売る時代だとも言われて久しい。
私は「こと」から、次は「こころ」を売る(配る)時代へ変わるのかなあ、と思ったりする。というか、そうであってほしい。
この新型コロナウィルスで「自分のこころ」の在処を探している人が沢山いる。
人間がずっと置き去りにしてきた哲学や精神が、ゆっくりと、でも大きな波となり、我々に問いかけているような気がする。
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