出産直後のブリュンヒルデ

ワーグナーのオペラ「ニーベルングの指輪」四部作をご覧になった人なら、
「出産直後のブリュンヒルデ」なんてあり得ないと思うのは当然です。
ブリュンヒルデは北欧神話に出てくる神々の王ヴォータンの娘。
ヴォータンの怒りに触れて炎の岩山で眠りについていました。
やがて英雄ジークフリートの妻になりますが、
ワーグナーの脚本（歌詞）のどこを見ても妊娠については書かれていない。
ところがある日、2006年にコペンハーゲンで上演された「ニーベルングの指輪」を見ていたとき、
その四作めの「神々の黄昏」に登場したブリュンヒルデが大きなお腹を抱えていました！
しかもそこは観葉植物いっぱいのふたりのスイートホーム。
旅立ちの朝、エプロンをかけて朝食を用意する伝説の英雄ジークフリート。
隠れて涙を拭うブリュンヒルデ。こっこれは！
そうなんです。ホルテンという演出家が神々と英雄の物語をホームドラマにしてしまったのでした。
そして自分でも信じられないことに、私はこのホームドラマが気に入りました。
ブリュンヒルデを歌ったのはイレーネ・テオリン。
テオリンさんは美しい顔をしていますが、体型が大仏さま？
「腹に詰め物しなくても妊娠中に見える」と言う人いるくらいでしたが、それはともかく….
「神々の黄昏」で登場したときから妊娠9ヶ月のブリュンヒルデです。
妊娠しているからには出産しますよね。それはいつ？？
4時間の「神々の黄昏」に出産できる隙なんてあったかしら？？
鍵は音楽にありました。
このとき私がこのオペラに精通していたら、ここだとわかったはずなのです。

コロナ禍の最初の年でした。
家にいる時間が増えて、私は動画サイトでオペラを見はじめました。
いままであまりの長編に恐れをなして避けていたワーグナーも
これだけ暇なら怖くない。
いっそ長編四部作「ニーベルングの指輪」をイッキに見るのはどうだ！
それは時間的には大丈夫だったのですが、ちょっとした苦難がありました。
ワーグナーはオーケストラの編成が大きいので
歌手は重い声の他に大音量を求められます。
すると、どうなるか。
ワーグナーを歌うのは体型に問題のある歌手が多いのです。
樽を通り越して壁です。国技館以上です。

それからもうひとつ。
ヨーロッパのオペラファンはワーグナーをさんざん聴いて聴き飽きているらしく、
演出に新基軸が求められるようでした。
時代を現代に置き換えるくらいは当たり前。
意味もなくワニが出てきたり、人間シャンデリアが吊り下がっていたり、
全裸の男が水槽を泳いでいたりします。
それらをかき分け、不要なものを踏み潰していくと、これは好みだと思う2本の動画が残りました。
1本はメトロポリタン歌劇場のオーソドックスな演出。
もう一本がコペンハーゲンで上演された奇想天外な、
しかしきっちり裏付けのあるたいへん面白い演出でした。
出産直後のブリュンヒルデはこの最終場面に登場します。

初回のコラムに書いたジークムントとジークリンデの兄妹の駆け落ちのお話がありますが、
兄であり夫であるジークムントを殺されたジークリンデは「私も殺して」とワルキューレたちに訴えます。
元々のストーリーでは、そこでブリュンヒルデがジークリンデに妊娠を告げ、
ジークリンデは生き抜く力を得ます。
ここで流れるのが「愛の救済」と呼ばれるメロディです。
「愛の救済」はワルキューレのこのシーンと神々の黄昏の最後にしか出てきません。
ああ、そうか。「愛の救済」って子供のことだったのか。
やがて生まれてくるその子供はジークフリート。
世界を救う鍵になる英雄です。

「神々の黄昏」のラストシーン。
奸計によって殺害されたジークフリートの遺体を焼く炎が神々の世界をも焼き尽くすなか、
まだ妊娠中のブリュンヒルデは最後の歌をうたい終わると
陣痛かと思わせるそぶりで姿を消すのですが、
オーケストラが愛の救済のテーマを演奏するときに赤ん坊を抱いて出てきます。
白い下着には血がついていて出産直後であることがわかります。
そうか、ここだ！　ここに演出家が子供を押し込む隙があったんだ。
その赤ん坊は「救済」の象徴です。
観客はここで世界の再生を予見して救われた気持ちになります。

オペラの演出は歌詞を変えることはできないのですが、
設定や衣装や装置は何とでもなるので、演出家にとっては
やりがいのある面白いものかもしれません。

「神々の黄昏」前半

「神々の黄昏」後半（こちらのラストシーンに出産直後のブリュンヒルデ登場）