続 1984
さて、さらに東急エージェンシー・インターナショナル。
今から思えばよく雇ってくれたと思う。いや潜り込んだというべきか。
当時探していたライターは、オーディオ専門誌などに掲載する、
技術がわかる・書けるライター、いわばテクニカルライターだった。
僕は理科系ではあったが、卒業したのは機械工学科。
電気ではなくメカなんだが、理科系なら「なんでもいい♪」とゆるかった。
僕は僕で「なんでも書けます!」とハッタリかましたんだろうな。
ま、結果、理科系を「売り」にし、売れたことになる。
仕事はといえば、
SONY本体はもちろん音楽レコード(マイケル・ジャクソンも尾崎豊もいた)
さらにソニー系の通販事業まで、SONYグループの仕事がごっそりあった。
4媒体全て元気だった時代、またWalkmanの大ヒットでSONYもすこぶる元気だった。
会社の空気は「もっといいアイデアを」に溢れ、営業も含め自分の筋を貫き通すいい大人たちがいた。
いろんな会社を見てきたが、
振り返って見返すとこの会社には下品な人もいなかった。褒めすぎか。
クリエーティブの歴史は浅く若い会社だったが、とにかく勉強になった。
活躍の場を求め代理店から来たCDたち、そしていちばん勉強になったのは
サン・アド、ボア、エージー、などの一流プロダクションを経験した
腕に自信のある職人たちの技術やスピリット。それはいまの僕の中にある。
叩きこまれたし、盗んだ。
盗んだと言えば、
仲畑貴志さんと岩崎俊一さんから泥棒したモノは大きい。※
二人とも何も教えてくれなかった。質問もしたこともない。
けれど超一流のコピーライターたちが同じ課題をどう考えるのかを
ライブのいちばん前の席で見て、刺激にならないわけがない。
6年間在籍した。計画通りTCC新人賞も獲れた。
この会社のあと僕は電通に移籍することになる。
電通には比較的長く在籍したから
カミタニは俺が育てた」という人はあまたいらっしゃった。
恐れ入りますが、私公認の育ての親は唯一、東急インターだけである。
あとがき
今までのところ僕は8回職場を変わっている。※2
転職が天職になった。(だっさいコピー!)いろんなことを忘れはじめたので、一度どこかに書いておこうと思った。生まれ変わっても、もう一度同じことを繰り返すのだろうか。広告が好きだ。一生何かを作り続けられるための転職のつもりだった。しかし、この読みは甘かったかも。パンデミックがはじまった。 2020 4月 神谷幸之助
※1:SONYの大きな仕事は売れっ子の仲畑広告制作所と岩崎俊一事務所に発注されていた。プロダクションの時代。クライアントの意向でもあり代理店のクリエーティブはまだ発展途上だった。
※2: #1ローレル・バンクマシン #2エスデージー #3東急エージェンシー・インターナショナル #4フリーランス #5電通
#6ワイデン+ケネディ トウキョウ #7ナカハタ #8(出戻り)ワイデン+ケネディ トウキョウ (2020/4月現在)