縄文土器、弥生土器、どっちが好き?
今日のタイトルは「縄文土器 弥生土器、どっちが好き?」である。
最近私がヘビーローテーションで聴いているレキシさんの中でも、私のハートを完全に撃ち抜いた曲「狩りから稲作へ feat.足軽先生・東インド貿易会社マン」である。
高校時代からもう18年経っているので、その時担当していた先生方もいらっしゃらないことを想定して言わせて頂くと、私が「日本史」を嫌いになったのは、高校時代の日本史の先生の授業が原因である。教科書に書かれたような美しい文字を黒板に書き、そこに年表と何が起こったかを淡々と説明する先生。それなら教科書を自分で読んだ方が早かった。それが原因で学校に行かなくなった時期もあったくらいだ。
そんな自分が、歴史を改めて好きになれたのは「やきもの」と「インド」のおかげである。やきものを見ているうちに、日本の地方名も年表も頭に入り、安土桃山時代の文化的な背景も「やきもの」を通して想像が膨らむようになった。「インド料理」を研究しているうちに、その料理が生まれた背景や歴史を学ぶようになり、今や大学時代の時に読む気になれなかった、超絶長いインドの叙事詩であるマハーバーラタを読み出すまでになった。
英語が全く好きになれなかったのも、高校時代の英語の先生の授業が原因である。自分より発音が上手ではない先生が、一生懸命にWould you like a cup of tea? を教科書の中のJohnになりきって連呼している。今思うと、非常に冷めた目で1時間彼を見つめていた。
そんな自分を救ってくれたのは「ビートルズ」だった。82年生まれの私にはリアルタイムではなかったが、親が持っていたレコードのライナーノーツに載っていた歌詞を貪るように暗記した。ダイヤモンドのようにキラキラした言葉だった。ポールの歌詞は時に詩的で、ジョージの歌詞は人間愛にあふれ熱を帯びていた。英語の塾に一度も行かなかった自分がまがりなりにも英語が話せているのは、ビートルズのおかげである。
最近思うのである。授業の面白くない先生に出会うことほど不幸なことはない。
特に中学生から高校生までの感受性溢れる時期に、あのどうしようもない授業は一体なんだったのだろう。
幸い、私の家にはビートルズのレコードがあった。ピカソの画集があり、ミヒャエルエンデの「モモ」があった。でも、それがない子供たちは一体その鬱憤をどこで晴らせばいいのだ。
私の兄は、西宮で最近「オンライン塾」を立ち上げた。国語を学ぶ教材に「風の谷のナウシカ」を使っていて、その様子を横から見ていると、子どもたちのアハハという笑い声が聞こえてくる。
話を聞くと、兵庫県にある灘校で、文庫本「銀の匙」だけを3年間かけて読むという前代未聞の授業を行っていた橋本武さんからの影響だという。スロークッキングならぬスローリーディングである。そう、数学も社会も理科も、全ては国語から始まるのだ。
先日、たまたま家族と縄文土器と弥生土器、どちらが好きかという話を電話で話していた。ずっと自分の中で解せない疑問があり、それこそが「なぜ、あんなにアグレッシブな縄文土器を作っていた日本人が、弥生土器に落ち着いてしまったのか」という点だった。もちろん狩猟型から水稲、農耕型の生活洋式に変化を遂げたことが要因とはいえ、日本人自体のDNAが変化したわけでもない。そう思っていた頃、たまたまレキシさんの「狩りから稲作へ」という曲に出会ったのである。
(女)
どこへも行かないで ずっとここにいて
私の願いは今日から稲作中心
(男)
狩りを終えてひとり帰る道の上
月の明かりも揺れている
涙ぬぐって狩りから稲作へ
ともに暮らそう 屋根の下 稲作定住
なるほど、である。縄文時代に生きていた女性になりきれば、その時代の好きな男性が、毎日のように遠く狩りに出掛けて行くことは、夜寝られないくらい不安な出来事だったに違いない。そんな時に(おそらく)朝鮮から水稲耕作の技術が持たされたら、誰しもが喜んで田植えを始めるだろう。「家族や恋人がどこにいるか、安心だし便利だ」で、携帯が広まったのと、同じ感覚かもしれない。
その時代に生きる人の気持ち一つで、習慣が変化し、文化が100年200年かけて変化していく。歴史は、その日そこに生きている人の心模様なのだろう。
皆さんは、縄文土器 弥生土器 どっちが好き?
ちなみに私は、断然、縄文土器!
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